窓の向こうに
ある晴れた日の事だった。
サントアークの家出王子様ルインフィートとその家来ハルマースは、これから仲間と合流してこの自由都市WARTの地下迷宮探索に出向こうとしていた。
装備を整え、酒場に向かいそこで偽善者との疑惑が持たれる神官戦士ガーラと、その弟のジュネと出会う。
迷宮を深く潜るには心細い人数だが、いつもだいたいこの四人で迷宮内で特に目的もなく軽く運動をするのである。
しかし軽い運動とは言っても、迷宮内には凶悪な怪物どもが棲み付いている。また、迷宮内に漂う邪悪な念動に捕らえられ、凶悪化した冒険者が人間を襲うこともある。
階層が浅いところでも油断をすれば命を落とすこともあるのだ。
そこでルインは、気を引き締めるために、迷宮に入る前に公衆便所に向かった。
敵と対面した時に催しでもしたらたまらないからだ。ルインはトイレが近い体質だった。
割と身軽な装備を好むルインは鎧をまとったまま、皮製のズボンのファスナーをさげて用を足すことが出来た。
これで気合い十分準備は完了とばかりに、股間の窓を締めようとしたその時、ルインは凍り付いた。
それは探索の度に身に纏っていた、だいぶ履きふるしたものだった。しかも皮製なのでいままで一度も、まともに洗ったことがない。
ファスナーの金属部分が錆び付き痛んで、閉まらなくなってしまったのだ。
ルインは焦ってしまった。ズボンのチャック全開で命ギリギリの闘いをしなければならないことのなんて間抜けなことか。
しかもこの日はハルマースの制止もきかずにパンツの柄がお星様である。
立っている時は目立たなくても屈んだ時などにパンツの柄がみえてしまったら……嫌なガーラに笑いものにされてしまう。
しかしなんとかしようと焦れば焦るほど手元のファスナーは不吉な感じにかたくなってゆく。
万事休す……ルインは眉間にしわを寄せ目を伏せた。
その時、親しい家来君の声がルインの耳に入った。
「どうした? 遅いじゃないか。
調子、悪いのか?」
ハルマースはトイレからなかなか出てこない主君を心配して中の様子を伺いに来たのである。
ただでさえ腹が緩いのかなんなのか下痢の多いルインである。心配になるのも無理はない。
ルインはガーラがそこにいないことを確認すると、しどろもどろになりながらも正直に事情を説明した。
ハルマースは表情一つ変えずに真面目くさった面持ちで、かがみ込んでルインの股間の社会の窓を凝視した。
ルインはなんとなく恥ずかしくなって赤面してしまったが、逃げるわけにはいかない。なんとかしてもらわないと困るのだ。
何の拍子か、噛み合わなくなってしまった所をぐいぐいと押し上げてみるが、出たのはため息だった。
「これはもう駄目だな……」
すんなりと絶望的な言葉を吐かれて、ルインは血の気がカッと熱く登ってしまった。
「そんなこと言わないで、なんとかしろよ!!」
そんな風に怒られても、そもそもハルマースには関係のないことである。ハルマースはむっとして立ち上がったが、彼の気持ちがわからないこともない。
「お前は何につけても乱暴なんだ、だから物を壊す」
この期に及んで説教をくれるハルマースを、ルインは恨めしそうな顔で睨んだ。
睨まれてハルマースは、やれやれとため息をついて、何を思ったのかルインの背中に回り腕を前に伸ばした。
背中から抱き締められるような格好になって、ルインは胸が高鳴るのを抑えられなかった。耳もとにすぐ、ハルマースの顔がある。
「いいか、こういう時は無理矢理閉めようとすると壊れるからな。
こうやってゆっくり、少しずつ噛み合わせてゆけばいい」
ハルマースは言いながら、ルインがどうやっても動かなかったファスナーを閉めていった。
ルインの大好きな、少々抑揚に欠ける生真面目な声が耳もとに響く。
お前の前ならそんなとこ開けっ放しでも構わないとか、むしろ開けてくれとか、ルインは少々興奮して口にだそうとしたが、それは思いとどまった。
いくらなんでもそれでは変態だ。性的嫌がらせに値することだろう。
「ハルマース……」
しかしそれでもルインは頬を染めて、ファスナーを閉め終えて離れようとした手を捕らえた。それはもう少し抱き締めていて欲しいと言うことの意思表示だった。
ハルマースは主君の行動に戸惑った。
「何だ……?
早くしないと、皆まって……」
「お前ら、なにやってんの?」
ぼやぼやしている内に、トイレに客が来てしまった。
しかも、二人がもっとも苦手とする、あの……。
「こっ……コテ……コテツ君!!」
彼らはすっかり忘れていた。ここが公衆トイレだということを。
ルインは焦り、慌ててハルマースから離れた。
時すでにおそく、コテツはトイレの外に出て大声でそのことを仲間に報告してしまった。
「あいつらトイレで抱き合ってるぞ? 大丈夫か!?
なんか変なもんでも当たったんじゃないか!?」
「うわあああーっ!! よしてよ!! コテツ君!!」
ルインは顔を真っ赤にしてコテツを後ろから羽交い締めにして口を塞いだ。
その話をきいてもガーラは別段驚いた様子もなく、それをネタに今度どうルインをいじめてやろうか早速思案を巡らせた。
ハルマースはばつが悪そうに、青ざめて黙ってうつむいていた。
そんな様子のハルマースに、彼に想いを寄せているジュネも具合悪そうに、しかし痛烈な皮肉を吐いて見せた。
「触れ合うためにわざわざトイレに隠れなくても……
いつも仲が良くてらっしゃるのに」
「ち、違……俺はただ……」
ハルマースは動揺しつつ言葉を飲み込んだ。
迷宮内で、ハルマースは爆発した。
うっぷんを晴らすように持ち得る攻撃魔法の最高位のものを連発して、怪物達をけちらしていった。