忠告
サントアークの最果ての、ルイムとの国境近くの険しく深い森の中に、その屋敷はあった。
切り立った谷のすぐ脇に建てられているその屋敷は、来訪者を拒んでいるかのごとく固く門が閉ざされている。
静寂が支配するその屋敷の主は、普段からここには住んでおらず、週に一度ほど天馬に乗って空より訪れる。
屋敷の主の名は、ダルマース・ゼノウス。先の統一戦争のおりに、数々の武勲を挙げ、将軍家に婿入りした男である。先の大将軍は彼にその地位を譲り、現在は彼が軍事権力を掌握している。
ダルマースは出所が不明で、素性の知れない男だった。彼の身の回りには、黒い不透明な噂が常に付きまとっている。
彼が将軍の地位に就いたその時期、宮廷内に謎の流行病が蔓延していた。風邪に似た症状から、意識不明に陥り、そのまま眠るように死に至る。その病にあたり、多くの王族、貴族の命が奪われたのである。その中の多くは、ダルマースに対し不審を抱く勢力の連中であり、彼に対し懸念を示していた国王の妃も命を落とした。
しかし彼を抱える将軍家に至っても、彼とその息子を残してすべて死んでしまうという事態になった。ダルマースが謀殺したのではないかと疑惑が持たれたが、証拠もなく、彼も妻や家族を失うという被害者の一員であったことから、この謎の病は歴史に残る一つの謎の事件として片付けられた。
その彼が、このような孤立した土地に別邸を所持しているというのは、さらに怪しまれる要因の一つでもあったが、彼にも止むに止まれぬ事情があった。
彼の大事な一人息子が、病に伏せているのである。心の臓を患っていると、医者は言う。ダルマースはその息子を、この静かな土地で半ば世間から隠すようにして、療養させているのである。
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窓の外には雪が降り積もる、美しく寒い夜だった。
静かすぎる寝息を立てて眠る幼い息子を眺めて、ダルマースは独り物思いに耽っていた。目つきが鋭く険しい男だったが、息子を見る目は、優しい。他の誰にも見せることのない父親の顔を、ここでは晒しているのである。
薄明かりの中、暖炉の火がほどよく部屋の中を暖めて、ダルマースはうとうととまどろんでいた。
突然の事だった。ダルマースの頭脳に直接、声が響いたのだ。
[お休みのところ悪いんだけど]
ダルマースははっと目を見開き、不意の声に驚きを隠せなかったようで、とっさに息子の眠る寝台の前で身を低くして構えた。目にも止まらない素早い身のこなしである。見渡すと、窓の外に人影があった。
その姿を見て、ダルマースは呆然となってしまった。ここは、二階だからだ。窓の外の人物の背には、大きな白い翼が生えていた。銀色の髪が、風に揺れている。そしてその片腕から、身の丈以上もある大きな棺桶を背負っていた。
ダルマースは戦慄を覚えた。告死天使が、息子を迎えに来たのではないかと。
[中に入れてくださらない? 寒いのよ、外]
頭の中に、声が響いてくる。りんとした、女の声だった。ダルマースは寝台の前から、動けずにいた。
[窓開けてよ。もたもたしてるとぶっ壊すわよ]
攻撃的なその声に、ダルマースは鋭い目つきでその女を睨んだ。
「何者だ、名を名乗れ!」
[ぶっ壊すって言ったでしょう!?]
いまにも窓を突き破ってきそうなその勢いに圧倒されて、ダルマースは慌てて窓を開けた。こんな雪の日に、窓を壊されてはかなわない。
女はひらりと、軽やかに部屋に入ってきた。同時に、背中の翼が空気に溶けるように消えてゆく。背負っていた棺桶を床に置き、背伸びをした。
間近で女の顔を見て、ダルマースはますます戦慄した。降り積もる雪に融けこむような青白い素肌に、目鼻だちのすっきりとしたとても端正な顔立ちをしている女だったが、それは知っている顔だった。どちらかというと、彼にとって、あまり合わせたくないという類の顔である。
「あ……あなたは……」
固唾を飲むダルマースの横で、雪を払いながら女は言った。
「随分偉そうなクチを聞くようになったものね」
女は不敵に微笑んだ。サントアーク人なら名前を聞いただけでもひれ伏すであろうダルマースが、この女を前にして動けずにいる。
「ローラ様、なぜこのような所に」
一歩下がり、ダルマースは身を低くした。
女の名はローラ・ルイム。ルイムの王妃にして月の神を崇める宗教の大神官である。年齢は不詳で、恐らく人間ではないと思われる。彼女の言霊は時に、死者をも蘇らせるという。格闘家としても有名で、彼女の拳は大地をも割るという。彼女は「鋼鉄の神拳」という二つ名でよばれ、恐れられていた。
「レイアを探しているのよ」
「存じません」
ローラの問いかけに、ダルマースは即答した。ローラはきつく、彼を睨みつけた。
「隠すとあなたの為にならないわよ」
そう言って見せても、ダルマースは答えなかった。
「俺は金で雇われているだけだ。
彼女との関係はそれ以上でもそれ以下でもない……」
ぼそぼそと、ダルマースはローラにそう告げた。ローラは苦笑いを漏らした。
「サントアークの将軍様が、お金に困っているわけ?」
凄味のきいた笑顔を見せながら、ローラはダルマースににじり寄っていった。彼女の腕が、ダルマースの胸元をつかんだ時。傍らで静かに寝息をたてていたダルマースの息子……ハルマースが、突如苦しそうに呻き出した。胸を押さえ、苦しそうに呼吸を乱す。
「う、うう……苦しい……!」
「ハルマース!!」
ダルマースが振り返るよりも先に、ローラがハルマースの側に駆け寄った。苦悶の表情を浮かべる少年の胸にそっと右手を当てると、祈りの言葉を紡ぎだした。
「慈悲深き癒しの月よ……」
ローラの右手が淡く光り、その光りはハルマースの胸の中に消えていった。するとハルマースの表情は安らかなものにかわり、乱れていた呼吸も元に戻っていった。安らかな気持ちに包まれ、ハルマースはおぼろげにローラの姿を見ながらまた眠りについた。
「ローラ様……」
ダルマースがおそるおそる、彼女に声をかけると、振り向きざまに強烈な拳が空を切った。彼でなければもろに顔に直撃を食らっていただろう。殺気の篭った拳だった。
避けられたことにもいささか腹を立てながら、きつい形相でローラはダルマースを睨んだ。
「ただの病気じゃないわね、この子。
悪質な呪いをかけられているね」
「…………」
ダルマースはなにも答えなかった。眉間には深くしわが刻まれている。
ローラは突如ふっと、微笑みをもらした。
「あなたはあの子によほど好かれているみたいねえ」
彼女は自ら持ってきていた棺桶を再び肩に背負い、窓の方へと歩いていった。
「ここにはいないみたいだから、余所をあたるわ」
窓を開けると、冷たい風が雪とともに吹き込んでくる。
「一つ忠告しておくわ。
ここにいるより、王城の側で暮らした方が安全よ。
例の一件のおかげで、幾重もの強力な結界が張られたみたいだし。
レイアの呪いの威力が弱まるはず……」
言い聞かせるように告げると、ローラは窓の外に融けるように飛び立っていった。
不意の来訪者は去り、部屋はまた静かな部屋に戻った。ハルマースは安らかに眠っている。その手にはいつのまにか小さな護符のようなものが握られていた。
「ローラ様……」
ダルマースは奥歯を強く噛みしめていた。
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