黒い噂
リーディガルは憤りを感じていた。長い渡り廊下を足早に進んでいく。静かな朝に乾いた足音が響き渡った。
彼は自分の担当の教師から兄の成績が芳しくないことを知らされた。授業態度もいい加減で、勉強はそっちのけで日々剣術の訓練に明け暮れていると。
リーディガルにとってそれは予想できる事態のうち最悪の部類の事柄だった。兄は昔から勉強が好きではない。
将来国を率いていくものがそんなことではどうしようもないではないかと彼は心を痛めた。
僕がしっかりしなくてはと、リーディガルは密かに心に誓った。
リーディガルは彼のために与えられている教室に入り、席に着いた。教材は既にあらかじめ用意されて机の上に綺麗に並べられている。
二年前までは兄と一緒に学んでいたこの部屋が今はやけに広く感じられた。
程なくして教師が教壇に現れてリーディガルに一礼をし、講義を始めた。
教室にはいつも教師とリーディガルの二人しかいない。一部の教師は自然にリーディガルと親しくなっていった。
特に現代史を教えているレドリクスという男は、リーディガルと密接な関係を持つようになっていた。
レドリクスは講義以外の個人的な時間にもリーディガルに接触するようになり、リーディガルも彼の事を慕った。
午後、城の中庭で昼の休憩を取っているリーディガルの元にレドリクスが赴いた。一言断りを入れると、彼はリーディガルの隣に着席した。
レドリクスはまだ20代半ばで、彼を教える教師の中では一番若い男だった。髪の色は黒で、瞳の色は深い森を思わせるような深緑だった。
同じ髪色を持つリーディガルは彼に親近感を抱いていた。サントアークでは黒髪は珍しい存在だった。
両親共に黒髪ではない為に、リーディガルの出生を疑う者もいた。王家にはかつて黒髪がいない為、王妃の不義の子であることを疑われているのだ。
しかし母方の祖先には黒髪の者も存在していたという事実もあり、リーディガルが黒髪で生まれたという事も全くありえない事ではない。父王エルザールもリーディガルの事を自分の子として認めている。
そんな外見に起因する劣等感を克服する為にも、リーディガルはより気高く賢い王家の人間であろうと努めていた。
「リーディガル様、今日はご機嫌があまりよろしくないようで」
レドリクスはリーディガルに優しく微笑みかけた。リーディガルは机に肘を立てて頬杖をしており、その表情は眉間に皺を寄せている。傍から見ても明らかに王子は不機嫌だった。
リーディガルはつんと澄ましてレドリクスと顔を合わせようとはしなかった。
「ルインフィート様のご成績のことですか?」
「何故それを」
腹の内を予測されてリーディガルは驚き、レドリクスのほうを見た。彼は相変わらず微笑んでいる。
「我々教員の間でも専らの話題ですからね」
その言葉を聞いてリーディガルは顔色を変えて立ち上がった。
「なんと無礼な! 兄を笑い者にしているのか!?」
リーディガルは机を叩いて怒りを露にした。たとえ勉強が駄目な兄でも侮辱されるという事は許されることではない。
レドリクスは慌てて立ち上がり、リーディガルの腕を掴んで座るようにと宥めた。
「いえいえ、笑い者など滅相もございません。ルインフィートは武に優れた立派なお方です。
我々はただ……少し不安になりましてね。その武に優れすぎていることが」
「どういうことだ?」
リーディガルはレドリクスの含みのある言葉が気になり問いかけた。レドリクスは静かに語り始めた。
「サントアークは戦乱の世が終わり平和な時代を迎えています。
そんな時に求められるお世継ぎは武よりも知に秀でた人間でないと」
「僕が兄さまの補佐をするから問題は無い」
リーディガルは彼の言葉にますます腹を立ててむきになって反論した。しかしレドリクスは俯き、憂いのある悲観的な声で言葉を返した。
「ルインフィート様の側には、あの男がいるじゃないですか」
レドリクスにまっすぐに見つめられて、リーディガルは言葉を喉に詰まらせた。あの男といえば、思い当たる人物は彼しかいない。
「ダルマース、か」
レドリクスは深く頷いた。そして言葉を更に続けた。
「彼は戦好きで有名な男だ。先日の魔族討伐も部下が止めるのも聞かずに自ら前線に立ったそうですよ。
いずれルインフィート様が力を持つようになれば、仲の良い彼も今以上に影響するようになりますよ」
レドリクスはそこでいったん言葉を区切り、大げさに身をすくめて見せた。
「ルインフィート様は彼に毒され、いらぬ争いを起こしてサントアークをまた戦乱に導くかも……」
言葉よりも先にリーディガルは腕を振り上げレドリクスの頬を張っていた。ぱしんという乾いた音が中庭に響く。リーディガルは肩を震わせて声を荒げた。
「僕が誓ってそのような事態は起こさせない!
レドリクス、言葉が過ぎるぞ!」
リーディガルはきつくレドリクスを睨みつけて叱った。しかしレドリクスは怯まずにリーディガルを見つめて反論する。
「私はあなたの身を案じているのです。そしてサントアークの行く末を。
現にわがままなルインフィート様はダルマースを頼って城を出て行かれたではないですか。
彼の身勝手さは今後国政にも影響して行くでしょう。そしてその背後には、ゼノウスの者が……」
「やめてくれ!」
リーディガルは悲痛な声をあげてレドリクスの声を遮った。頭を抱えて机の上に顔を伏す。
「僕がそんなことをさせはしない。僕が……」
リーディガルは肩を震わせて力なく言った。レドリクスは震える彼の肩をやさしくそっと抱いた。
「武人の前に我々文人の力は遠く及びません。弱いものです。
あなたが……この国のお世継ぎだったらと思うと」
レドリクスの言葉にリーディガルは首を横に振るだけで言葉を返すことはなかった。
サントアークは世襲で長男が国を継いで行くのが絶対の決まりになっている。
長男の身に事故でも起こらなければ。
レドリクスは俯いているリーディガルの脇で、無気味な微笑みを浮かべていた。
それからレドリクスは事あるごとにルインフィートとダルマースの悪い噂をリーディガルに吹き込んでいった。
最初は激怒し叱咤したが、リーディガルはそのうちにレドリクスに毒されて塞ぎ込むようになってしまった。
表情は乏しく虚ろになり、利発で活発だった性格は徐々に歪められていった。
⇒NEXT