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日食
 地下水路はやがて地上の川へと合流し、二人の王子を乗せた小船を無情に流していった。
 冷たい川の風に晒され、水飛沫を浴びて、刻一刻と身体の熱が奪われていく。不運なことに天候も崩れ、大粒の雨が二人に降りかかった。
 ルインフィートはいよいよ危機を感じ始めていた。目の前のリーディガルは既に、意識が朦朧としているようだった。
 このままの状態でいたら確実に命を失ってしまう。ルインフィートは覚悟を決めて、慎重に身体を捩じらせて縄抜けを試みた。
 水に濡れた縄はずっしりと重く身体に食い込み、僅かでも動くたびに身体に激痛が走った。
 しかしそれでもルインフィートは諦めず、苦痛に顔を歪めて猿轡を噛み締めながら必死でもがいた。
 その甲斐あって、彼は何とか縄から抜け出すことが出来た。猿轡も外し、真っ先にリーディガルに声をかけた。
「リー! しっかり!」
 ルインフィートはリーディガルを励ましつつ、彼の戒めを解いてやった。リーディガルは力なくぐったりとしており、ルインフィートの問いかけにも応えなかった。
 だが、弱弱しいが確実に息はあり、脈も打っているのを確認したルインフィートは、冷え切った弟の身体を抱きしめて暖めた。
 その甲斐あってか、リーディガルの腕が僅かに動きを見せた。
「に……さま……」
 リーディガルの意識が戻り、瞳に意志が戻り始めた。ルインフィートは一層弟の身体を強く抱きしめた。
「リー、絶対助けてやるからな」
 ルインフィートは力強く微笑むと、川の上を流されてきた流木を拾い、僅かでも岸に近づこうと必死で漕いだ。少しずつだったが小舟は確実に川岸の方へと軌道を変え、ついには無事に着岸することが出来た。
 ルインフィートは力を振り絞ってリーディガルを支えながら川原を歩き、崖下の窪んでいる岩陰に身を隠して雨をしのぐことにした。
 しかし気温はどんどん下がり、濡れた着衣が拍車をかけて二人の身体を冷やしていく。ルインフィートは着衣を脱ぎ、水気を絞って苔の生えたやわらかい場所の上に敷いた。
「リー、少しの間我慢だ」
 ルインフィートはリーディガルの服も脱がし、やっつけで用意した床の上に横たわらせた。
 そして彼は苦笑いしながら、リーディガルにゆっくりと肌を合わせ、抱きしめるように横たわった。
 兄の素肌の感触と暖かさに触れて、リーディガルはぴくりと肩を強張らせて頬を染めた。
「にいさま……?」
「君を暖められるものが僕の身体しかない。
 気持ちが悪いかもしれないけど、雨が止むまで我慢だ」
 ルインフィートはリーディガルの背中に腕を回し、励ますように軽く叩いた。
「にいさま……」
 リーディガルは兄の暖かさに目を細めた。ルインフィートは励ましの声をかけ続け、何度も弟の頭を優しく撫でていた。
 やがて雨の音が小さくなり、空が明るみ始めた。雲が切れて光が梯子のように空を彩った。
 雨は完全に止んで、二人は岩陰の隙間から七色の光の筋を見て表情をほころばせた。
「虹なんて久しぶりに見たよ」
「僕もです、にいさま」
 リーディガルはすっかり生気の戻った表情をしていた。
 二人は起き上がり肩を並べて、暫くの間空を眺めていた。
 雲はいつしか流れ去り、空には青空が広がりはじめた。
「よかった、すっかり天気が良くなったな」
 ルインフィートは笑顔で立ち上がり、半裸のままで岩陰から外へと出て行った。
 すぐ脇に、自分達を戒めていた縄を張り、濡れた着衣を干した。
「パンツ一枚じゃどこにもいけないからな」
 リーディガルは兄の言葉に笑顔を見せた。
 衣服が乾くのを待って、二人はまたじっとして空を眺めていた。取り留めない会話を交わし、穏やかな時間が過ぎていった。
 次第に、先ほどの雨がまるで幻ったかのように太陽が照りつけてきた。
 ルインフィートは再び立ち上がり、岩陰から外を仰ぎ見た。

「……おかしいな」
 ルインフィートは呟いた。その言葉にリーディガルの瞳が不安に揺れる。
「どうかしました?」
 ルインフィートはゆっくりと更に外へと足を踏み出した。
「こんなに晴れてるのに、空がだんだん……暗く」
「えっ」
 兄の言葉にどきりとして、リーディガルは立ち上がった。しかし体力の消耗が激しく、足元がふらついて、上手く歩くことが出来ない。
 たしかに、空は雲もないのに急激に無気味に暗くなっていった。
 ルインフィートは何かに誘われるかのように歩き、リーディガルから遠ざかっていった。
「にいさま……にいさま!!」
 リーディガルは兄に追いつこうと必死に歩き、引きとめようと叫んだ。彼はこれから何が起こるのか、知識として知っていた。
「それは日食です! 太陽が月に遮られてしまう!」
 太陽が黒くなるという現象は、サントアークでは不吉な事柄として認識されていた。
 太陽神の陽の力が反転し、負の力が辺りに降り注ぐ。
 その黒い光を浴びないように、日食の間は物陰に身を隠さねばならないと言い伝えられている。
 ルインフィートは耳鳴りと怖気に襲われ、危険を感じて咄嗟に振り返って叫んだ。
「リーディガル、隠れろ!」
 言われるままにリーディガルは岩陰に身を隠し、兄を呼んだ。
「にいさまも早く!」
「……足が動かない」
 ルインフィートは苦笑いした。リーディガルははっと、兄の足元を見た。
 無気味な黒い手が地中から伸び、ルインフィートの足を掴んでいた。
 リーディガルはすくみあがり、金縛りに遭ったかのように身体が動かなくなった。
 やがてあたりは完全に夜のように暗くなった。昼間見えることの無い天空の星々がうっすらと無気味に光っている。
 ルインフィートは不思議と落ち着いた気持ちで空を見上げて、黒い太陽を目の当たりにした。
 リーディガルの声が遠く聞こえ、耳鳴りが激しくなり、気が遠くなってくる。
 ルインフィートの目の前に一層黒い影が広がり、それはやがて彼を呑み込んだ。そして彼の身体は暗闇に溶け込んで、この場から跡形もなく消え去った。
 突然目の前で起こった奇怪な現象にリーディガルはなす術もなく呆然となった。
「そんな……嘘だ……」
 リーディガルはその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱え込んだ。
 数分のうちに日食は終わり、空は元通りになったが、ルインフィートは戻らなかった。
 リーディガルはぽっかりと心に穴が開いてしまったかのような虚無感を覚え、その場で動けずにただ呆然としていた。
 これほどまでに己の無力を悔やんだことは無かった。わけのわからない悔しさに徐々に涙がこみ上げてきた。
 岩陰の脇に干された衣服が空しくたなびいた。それが目印となり、地下水路を辿って捜索をしてきた捜索隊に見つけられ、リーディガルは保護された。

 リーディガルが王城に戻ると、不思議なことに先にルインフィートが救出されていた。
 しかしルインフィートは瀕死の重傷を負っており、集中的に治療が行われ面会謝絶の状態が続いていた。
 ルインフィートを救出したのはダルマースだという。彼もまた傷を負い、医療病棟で治療を受けていた。
 あの一瞬のうちに一体何が起こったのか。
 リーディガルはすぐにでもダルマースと話をしたかったが、高熱を出してしまい自身も身体の治療に専念せざるを得なかった。
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