家出
空に満月の輝く美しい夜だった。ルインフィートは決意を秘めた眼差しで窓の外を眺め、右手に持った鋭い短刀をぎゅっと握り締めた。
豊かな金色の髪を左手で掴み、短刀をあてがう。ルインフィートはゆっくりとその自らの髪を短く切り落としていった。
はらはらと床に散った髪をそのままに、彼は身の丈の三分の二程もある大きな剣を背負い、大きな鞄を肩から下げて、こっそりと自分の部屋を出て行った。
彼は見張りに見つからないように忍び足で動き、城の中でもひときわ人の立ち入らない奥まった通路に向かった。行き止まりに立てかけられている絵画の裏に隠し通路の入口がある。
本来この通路は非常時に王族などを逃がす為のものであり、ここを通れば城の外へと抜け出せた。今までも何度かこの通路を利用し、彼はダルマースの屋敷へと足を伸ばしていた。
通路は地下へと伸びており、この王城の地下水路と合流していた。排水の生臭いにおいが辺りに立ち込める暗い道を、ルインフィートは松明を掲げながら慣れた足取りで進んでいった。
地上への出口は複数用意されている。いつもはゼノウス邸の直ぐ近くの出口を利用するのだが、今日は違った道を歩き進んでいた。
地下水路は広大な範囲にわたって伸びている。出来るだけ王城から離れた出口を目指した。時折天井から滴が垂れ落ち、ぽたぽたと不気味な音を立てていた。
半刻ほど歩き、行き止まりでルインフィートは松明の火を消して梯子を上った。上まで登り、出口にされている蓋を片手で押し上げた。しかし何年もの間閉ざされているその蓋は、固く重く閉ざされていてなかなか開けることが出来なくなっていた。
「よいしょ、よいしょ」
ルインフィートは精一杯に腕を伸ばした。落ちないように両足をしっかりと梯子に絡ませて、両腕で力いっぱい押し上げると、重い蓋が徐々に動き始めた。
なんとか横にずらして腕一本が通るほどの隙間を開けると、ルインフィートはそこに無理矢理腕をねじ込んで開けていった。
不意に、身体よりも先に外に出した腕が、何者かに掴まれた。ルインフィートは心臓が縮み上がるかのような緊張を覚えた。
その何者かによって蓋が開けられ、ルインフィートの体が強い力で引き上げられた。
引き上げられた外はどこかの墓地だった。蓋だと思っていたものは、墓石に紛れて偽装されていたものだった。
周りを鬱蒼とした森に囲まれており、暗闇が辺りを包んでいた。木々の隙間から僅かな月明かりが漏れている。ルインフィートは自分を引っ張り出した人物の姿を確認した。
背の高い、痩せた男だった。やや伸びたまっすぐな髪を後ろに一つでまとめ、暗闇の中でも伺えるきりりとした顔立ちのその男は、ルインフィートの良く見知った人物だった。
「は……ハルマース」
ルインフィートは呆然とした。彼に来て欲しいと、頼んだ覚えが無いからだ。
「こちらへ」
ハルマースは短くそう告げると、驚くルインフィートに構わずに、彼の手を引いて歩き始めた。
「ハルマース、何故ここに」
ルインフィートは我に帰り、森の暗い道の途中で足を止めてハルマースに問いかけた。
「……ダルに言われたのか?」
答えを聞くまでもなく、そうとしか考えられなかった。ルインフィートは俯いて、護符を求める理由を答えなかったことを後悔した。
ハルマースは何も言わずに、俯くルインフィートの手を再び握った。風が通り抜け、樹木がさわさわと音を鳴らす。ルインフィートは恨めしそうな表情で、ハルマースのことを見上げた。
「それとも僕を城へ連れ戻しに来たのか?」
ルインフィートの問いかけに、ハルマースは首を横に振った。
「このハルマース、あなたと共に参ります」
ルインフィートは強く首を横に振った。
「ダメだ、帰れ。周りに迷惑をかけるのは僕だけで十分だ」
「心配ありません、了承済みです」
深刻な表情で問いかけるルインフィートに対して、しれっとした表情でハルマースは答えた。
「あなたの計画も、全て周りの者は知っていました。
あなたはこっそりと家出のつもりで出てきたのかもしれませんが……」
その言葉を聞いてルインフィートは再び呆然となった。こっそりと城を抜けてきたつもりが、じつは見逃されていただけなのかと。
「……父様は、僕がいなくなっても何とも思わないのか」
明らかに苛立ちの篭る声で、ルインフィートは言った。ハルマースは何も答えずに、ルインフィートの手を引いた。
「夜の移動は危険です。あちらに無人の小屋があります。
今後の計画を立て、明日の朝旅立ちましょう」
ルインフィートは面白くない、といった表情のまま、ハルマースに案内されるがままになって歩いた。
森を少し抜けたところに、煉瓦で造られた小屋があった。人影はなく、あちこちが打ち崩れて手入れがされておらず、長く使われていないことを察することのできる廃屋だった。
屋敷の入口にはこの建物の持ち主だったのか、【マディオラ・エストファール】と書かれた表札が斜めになって掲げられていた。
中に入り、壁に打ち付けられている古びたランプに、ハルマースが魔法の火を放ち、明かりをつけていった。埃っぽい空気を吸い込んでルインフィートはごほごほと咳こんでしまった。
「少し冷えるかもしれませんが、窓を開けましょう」
ハルマースは部屋の窓を開け、ルインフィートを気遣って、埃を吸い込まないようにと手拭き用の布を手渡した。
しかしルインフィートはその布をハルマースに突き返した。
「僕に気を使わなくていい。僕……いや、俺は、冒険者だからな」
「なに言ってるんですか。あなたは王子ですよ」
ハルマースは真面目くさった表情で、ルインフィートに言う。ルインフィートはむっとして、ハルマースのことを睨みつけた。
「お前やっぱり帰れよ! ぼ……俺は、本気で危険な場所に探索をしに行くんだ」
「だったら尚更、帰るわけには行きません。
あなたをお守りするのが私の務めです。
誓ったはずです。生涯あなたのお世話をさせていただくと」
「もういい! 勝手にしろ!」
あくまでも真面目なハルマースの言葉に、ルインフィートは妙な苛立ちを感じ始めた。
「俺についてくるなら、務めとか任務とか言うの止めろよ」
「わかりました」
「敬語もやめろよ、俺たちはこれから、ただの冒険仲間なんだからな」
ルインフィートは至極真剣な眼差しでハルマースを見つめ、その手を取って握り締めた。生真面目そのもののキリリとしていたハルマースの表情が、僅かにほころんだ。
「……わかりました。ではこれから、恐れ入りますが、王子に対して砕けた態度を取らせていただきます」
ハルマースはルインフィートの前に跪き、手の甲にそっと口付けをした。ちっとも砕けていないその態度にルインフィートの苛立ちは更に大きくなってしまったが、慣れるまでは仕方が無いと思うことにした。
小屋の空気を入れ替えた後、二人は今後の予定を具体的に立てた。サントアークを抜け、ルイムに入国して抜けるまでの道のりを入念に確認する。ルインフィートがダルマースから受け取った地図が役に立った。
そしてサントアークを出てしまうと、「死の賢者に命を狙われる」とダルマースに警告されている為、他人に自分達の素性が知られないよう注意を払うという事を最重要とした。そのため、二人は本名を隠すための偽名を適当に考えた。
「俺がエストファールで、お前がマディオラな」
「この小屋にかかってた表札じゃないか」
あまりにも適当すぎる名付けに、ハルマースが不満そうな声を出した。しかし自分でも特にこれといった名前が思い浮かばず、結局二人はその名前を使うことに決めてしまった。
「しかし……ルインフィートさ、いや、エストファール」
不意に、ハルマースがルインフィートに接近し、顔に手を伸ばしてくる。
「な、なんだ?」
急に距離を詰められて、ルインフィートはどきりとした。ハルマースはどこか寂しそうな、哀しい目でルインフィートを見ていた。
「髪を切ってしまったんだな」
ハルマースはルインフィートの髪をそっと撫でた。ややクセのあるルインフィートの髪はふんわりとした手触りをハルマースの手のひらに返した。ハルマースはそのままルインフィートの襟足の部分に指を伸ばす。
ぞわりとした感覚がルインフィートの背筋に走り、彼は身を竦ませてハルマースの手を振り払った。
「何する、触るなよ」
「酷い有様だ、少し整えたほうがいい」
ハルマースはそう言うと、部屋に立てかけられてあった大きな鏡を見るようにルインフィートに促した。適当に自分で切られた髪はハルマースの言うとおり、ひどい有様で切り口ががたがたになっていた。
「少しじっとしていてください」
ハルマースはルインフィートを椅子に座らせ肩に外套を被せて、小さな短刀で器用にルインフィートの髪を梳いていった。
「く、くすぐったいよ」
ルインフィートは思わず再びハルマースの手を払った。首の付近で作業をされるとどうしてもぞっとしてしまい、鳥肌が立ってしまう。
「もう少しで終らせますから、我慢してください」
「もういいよ」
ルインフィートは席を立とうとしたが、ハルマースはがっちりとその肩を押さえつけた。
「動くとざっくりと切ってしまいますよ」
「もういいってば!」
しかしルインフィートの制止を聞かずに、ハルマースは自分の気が済むまでルインフィートの髪を整えた。
「お前がこんな、言っても聞かないような頑固なヤツだとは思わなかった。先が思いやられるな」
ふんと鼻を鳴らし、あからさまに不機嫌な態度でルインフィートはハルマースを睨みつけた。
「気を使うなと言ったのはあなた……お前じゃないか」
外套に散った髪を振り落とし、ハルマースは律儀に箒を探し出して、すました顔で床を掃いた。
「いくら身分を隠しても、あなたは私の主君です。冒険者に成りすますとはいえ、きちんとしたお姿でいて欲しいのです」
床を掃き終えた後、彼は寝台の敷布を窓にかけて埃を叩き払った。そのあと敷布を寝台に戻し、窓を閉めた。
「横になってください」
「気を使うなと言ったのに」
ハルマースの様子を見てルインフィートはため息をついた。彼は旅に出ると言う決意をしたときから、かつて捕らわれてしまったときのような過酷な生活になるということは覚悟していたつもりだった。
「ありがとう、ハルマース。世話になるよ」
ルインフィートはにこりと優しくハルマースに微笑みかけた。
「俺は絶対、お前を……」
言いかけて、ルインフィートは口をつぐんだ。ハルマースが綺麗にしてくれた寝台に横たわり、ぽんぽんと隣を叩いた。
「私は椅子で寝ます」
遠慮してそういうハルマースを、ルインフィートは睨みつけた。
「俺の隣では寝れないのか」
言われてハルマースは慌てて首を横に振った。暗くて判断がつかないが、心なしか頬を染めているようだった。
ハルマースは黙って、ルインフィートの脇にゆっくりと横たわった。
「おやすみ」
そう告げるとルインフィートはハルマースの脇にぴったりと寄り添い、目を閉じた。数分もしないうちに彼は安らかな寝息を立て、深い眠りに落ちていった。
ハルマースはなかなか寝付くことが出来なかった。目を閉じると、先ほどのルインフィートの笑顔が思い浮かぶ。
傍らに眠る暖かいルインフィートの身体をそっと抱き、髪を優しく撫でた。
「ルインフィート様……あなたは私の光です。いつまでもお側に居させて下さい」
ハルマースは目を細め、眠るルインフィートにそっと囁いた。
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