強制送還
辺りは暗闇に包まれていた。静寂な空間の中を一人歩いていく。ゴツゴツとした地面に違和感を感じ、目を地に向けてみると、地面には大量の頭蓋骨が敷き詰められて広がっていた。
足元が竦むのをなんとか堪えて、行き先もわからずにやみくもに駆けて行く。ひとしきり走った後、気がつくと彼は森の中にいた。
暗い、見覚えのある荒れた墓地。小高い丘のようになっているものは、死体が積み重なって築かれていた。
――ここは、どこだ。ここは……この場所は……
彼はその場から逃げるように走り去った。暫く走ると、大きな屋敷が現れた。鬱蒼とした森に囲まれて、暗く佇んでいた。
――嫌だ、思い出したくない……
固く目を塞いで、その場にしゃがみ込んだ。しかし目を閉じても、彼の脳裏に映像が流された。
薄明かりに灯された部屋の中で、人影が蠢いていた。目を逸らしたくても、逸らしようがなく映像が飛び込んでくる。
黒髪の男に犯されている、弟の姿が。
――ウソだ、そんな、ウソだ!!
身体を拘束されて動けない弟は、苦悶の表情を浮かべて、助けを請う。しかし助けたくとも自分の身体はまるで動かず、声を出すこともできない。
男がふと、彼のほうを振り返った。彼が見た男の顔は、頭が割られて見るも無残に崩れていた。
悪意の塊のような現実。思い出さないように、封じ込めていた記憶が鮮烈に蘇ってくる。
邪悪な眼が彼を捉えていた。晴天に突然現れた日食のように、辺りを黒い影で覆った。青く揺らめく炎の中で、漆黒の獣が唸り声を響かせていた。
心の崩壊する音が聞こえたような気がしたその時、急に身体が暖かいものに包まれた。
声が聞こえる。その声を聞いただけで、力がふつふつと沸いて来るようだった。
――……ート様、ルイン……ルイン!!
見覚えのある天井が見えた。身体中に汗をびっしりとかいていた。
身体を力強く抱きしめられていて、その熱を肌で感じることができた。
「ハル……マース……」
ルインフィートは不安に顔を曇らせている、友の顔を間近で見た。状況を理解するのに、時間はかからなかった。
「俺は、死の賢者に襲われて……ザハンさんに、逃がされて……」
「あなたは意識を失ってしまい、酷くうなされていました……。大事に至らなくてほんとに良かった……」
起き上がったルインフィートを、ハルマースは再びぎゅっと抱きしめた。ルインフィートもハルマースの背に腕を回して、彼の胸に顔を埋めた。
意識は戻ったが、身体の震えは止まらなかった。怯えるルインフィートの気持ちを察したのか、ハルマースは黙って彼の髪を優しく撫でた。
ルインフィートの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「ハルマース、俺……こんなに自分が弱いと思わなかった。何もできなかった……」
「相手が悪すぎますよ」
穏やかな声で、ハルマースはルインフィートを励ました。しかしルインフィートはまだ落ち着かずに、身体を震わせていた。
「ダメだ……こ、怖い……震えが止まらないよ……」
ぎゅっと縋り付いて来るルインフィートの身体を、ハルマースは力強く抱きしめ返した。
「目を閉じて、深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてください」
ハルマースはルインフィートの背中を撫でて、彼を促すように大きく深呼吸をして見せた。ルインフィートは彼に従い、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
恐怖に怯えていた心は徐々に落ち着きを取り戻して、身体の震えもいつの間にか止まっていた。
「ありがとう、ハルマース。お前が居てくれてよかった……」
彼はハルマースから腕を離して、身体ごと彼にもたれかかった。肩に、ハルマースの手が優しくそっとかけられる。
「俺の手で、お前の病気……いや、呪いを解いてやりたかったのに……」
「お気持ちだけで、十分ですよ」
ハルマースがうなだれるルインフィートの頭を撫でると、ルインフィートはまたぼろぼろと涙を零し始めてしまった。
「ううっ……なんか俺、ホントに……弱くなった……」
手の甲で涙を拭おうとしたが、その前にハルマースが手拭の布でルインフィートの顔を綺麗に拭っていった。
「思う存分泣いてください。俺が拭いて差し上げますから」
こころなしか楽しげなハルマースの声に、ルインフィートは急に恥ずかしさを覚えて頬をかっと染めた。
「だ、大丈夫だよ!もう」
「やっぱり俺の忠告どおり、行かないほうが良かったじゃないですか。たまには俺の忠告も聞いてください」
弱っているルインフィートを相手に、ハルマースは小言を言い始めた。ルインフィートはそんなハルマースにげんなりしつつも、彼なりの優しさを感じて反論することができなかった。
「わかったよ、認めるよ、俺は力量を見誤ったんだ。父様に剣を向けたときもそうだ。まるで歯が立たなかった。俺は何にもできないダメダメ王子だよ」
「そこまで卑屈にならなくても……」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
ルインフィートは口論になりかけていることに気がつき、ようやく本来の自分を取り戻したことを自覚した。こんなときでも余裕なハルマースの笑顔が、何故だかとても小憎たらしく思えてきた。
「俺、お前が居ないと生きていけないからな」
ルインフィートはハルマースに強いまなざしを向けて言い放った。突然の言葉に、ハルマースは不意を突かれたようで、やや照れくさいような表情を浮かべていた。
「護符のことはもう諦めた。人間諦めが肝心だ。お前の呪いも解けない。だから……ずっと俺の側にいろよ」
「はい。もうずっと昔からそのつもりです」
ハルマースは照れ笑いを浮かべながらも、ルインフィートの瞳をまっすぐに見つめた。彼は自分が言った言葉に照れているのか、頬を真っ赤に染めてハルマースから目を逸らした。
「ルインフィート様……」
ハルマースはルインフィートの頬に手を添えて、顔を近づけた。ルインフィートも彼の気持ちに応えるように、顔をゆっくりと近づけた。
二人は目を閉じて、唇を重ね合わせた。薄く開けられたルインフィートの唇を、ハルマースの舌が優しくなぞった。ルインフィートもハルマースを求めて彼の口腔へと舌を伸ばした。
吐息と唾液が絡み合った。角度を変えて深々とお互いを貪りあう。柔らかくて熱い中の温度が心地よくて、暫くの間二人は口付けを交わしていた。
「んん……んむっ……」
息が上がってしまったルインフィートは、ハルマースから顔を離した。唇からどちらのとも判別のつかない唾液が零れ落ちて、顎を伝った。
すっかり熱に侵されて、ルインフィートの身体は熱くハルマースを求めてしまっていた。下半身が不気味に高ぶっているのを、抑え込む事ができない。
「ハル……マース……」
ルインフィートはハルマースの肩に腕を伸ばした。誘われていることを察したハルマースは、彼に応えるようにそのまま寝台に彼の身体を優しく押し倒した。
その時突然、部屋の扉が開けられた。
二人は驚きのあまり、寝台に折り重なったまま固まってしまった。
「お前ら……」
酷く機嫌の悪い表情を浮かべたガーラが、そこに立っていた。
口付けに夢中になっている間に、玄関の扉が開けられたことに二人は気がつかなかったのだ。
ハルマースは気を失ったルインフィートをここに運び込んで、そのまま鍵を閉めなかったことを思い出した。
「俺たちが命がけで戦っている間に……」
ガーラはもう呆れて何も言えないといった様子で、額を手で押さえてがっくりと大げさにうなだれて見せた。
しかしガーラは直ぐに気を取り直し、呆れ顔はなおらなかったが、二人に地下で起こった出来事の報告をした。
「運が悪かったな。まさかあそこでレイアと遭遇するなんて」
「死の賢者……倒したのか?」
ルインフィートが期待に満ちた声で、ガーラに尋ねた。無事に彼がここに戻ってきているということは、戦闘に勝利したことを意味しているからだ。しかしガーラはうかない顔をして、答えをはぐらかそうとした。
「倒したといえば倒したんだけど……倒していないともいえる……」
「答えは一つしかないはずだ。はっきり言ってくれ」
ハルマースがいらついた面持ちで、ガーラに問いかけた。ガーラはそんな態度のハルマースに一瞬むっとした表情を浮かべたが、しかしまたうかない表情に戻っていた。
「じゃあ正直に言おう。倒してはいない。彼女は生きている」
「なんだって……」
ハルマースとルインフィートの二人は揃って声を上げた。ガーラは少し悩んだ後に、言葉を選びながら静かに二人に語った。
「彼女は古の魔王の身体の一部……あの邪悪な眼にとりつかれていたのさ。父さんがあの眼を無理矢理取り除いたから、彼女はもうお前達を襲うことは無いだろう」
「そ、そうだったのか」
そう言いつつも、ルインフィートは心の奥底の不安が拭いきれなかった。邪悪な意志がなくなったとはいえ、死霊魔術師にはかわらないのである。
「それで、そのレイアさんて人はそれからどうなったの? ホントにもう、俺たちを襲ったりしてこないかな」
ルインフィートは恐々としながらガーラに尋ねた。レイアは彼にとって、今まで起こった悪いこと全ての元凶だった。
「会って、話をしてみるかい?」
「まさか! 嫌だよ!」
ガーラの言葉をルインフィートは脊椎反射で拒否した。彼女の瞳を目にしたときの苦痛は、もう二度と味わいたくはなかった。
「身柄を確保しているのか?」
怯えるルインフィートの肩を優しく抱きながら、ハルマースはガーラに問いかけた。ガーラは軽く頷いて、ハルマースに答えた。
「お前の言いたいことはわかる。レイアの身柄をサントアークに引き渡せというのだろう」
「そうだ。何かに取り憑かれていたとしても、あの賢者は我々サントアークを混乱に陥れようとした張本人で……」
ハルマースは険しい表情を浮かべていた。もうこれ以上、王子を悩ませる人物の存在を許すことができなかった。
「悪いが、身柄は渡せない。俺にもよくわからないんだが、いろいろと事情が複雑なようだ」
「しかし……!」
「ハルマース、もういいよ。ルイムの賢者のことはルイム人に任せるしかないじゃないか。
それにもう、関わりたくないんだ……その賢者とは……」
ルインフィートはぎゅっと、ハルマースの腕を掴んだ。よっぽど彼女のことが恐ろしいのだろう。ハルマースはそう確信して、もうこれ以上追及しないことを決めた。
「まあ、そういうわけで、とりあえずその件は父さんに任せておけばいいと言う事でいいな?」
ガーラの言葉に、二人は黙って頷いた。
「もうひとつ、護符のことなんだが……」
話題を切り替えて、ガーラは迷宮探索の本来の目的のはずだった護符について語り始めた。
「コテツのオヤジさんが、貸してくれたよ。自分の客が無礼を働いたお詫びだってさ」
ガーラは腰に括りつけてある小さな物入れから、手のひらほどの大きさの小袋を出した。その中に、護符は収まっている。
「――は?」
ハルマースとルインフィートは、ぽかんと固まってしまった。あまりにもアッサリとした入手と、もう一つ引っかかることがあった。
「あの、貸すって……」
なんとなく嫌な予感がしつつも、ルインフィートはあえて尋ねてみた。
「またすぐに聖堂に奪いに来るってさ」
「は、はは……なんだか、ありがたいような申し訳ないような……」
半笑いを浮かべながら、ルインフィートはガーラから護符を受け取った。彼はなんとなく袋の口を開けて中を覗こうとしたが、ガーラに慌てて止められた。
「やめておけ。中身を見たら、呪われるそうだ。もう夜だけど、聖堂に行ってみよう。こんなもの持ってたら物騒だ」
「そ、そうなのか……」
ルインフィートははっと息を呑み込んだ。期待と不安を抱きながら、彼らは部屋を出て行った。
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