帰路
時間は瞬く間に過ぎて、出航の日がやってきた。借りていた部屋を引き払い、荷物を連れの騎士たちに託して、ルインフィートとハルマースは、時間が来るまでこの街を散策することにした。
穏やかな陽の光が街を包んでいた。いつものように賑わっている街を眺めて、ルインフィートは目を細めた。
サントアークへ帰ってしまえば、もう暫く、いや一生この街に来ることは無いかもしれない。そう思うと、名残惜しくて切ない気持ちになった。
「時間までに戻るよ。世話になった人たちに、お別れの挨拶をしないとね」
ルインフィートはリーディガルの頭を撫でながら、笑顔を見せた。
「僕も行きます、兄さま」
リーディガルは目を輝かせながらルインフィートに訴えた。彼はこの街のことがすっかり気に入ってしまったらしい。
王城からあまり離れたことの無いこの弟にとって、ワートの街はすべてが物珍しく新鮮に映っていた。
「一緒に来るのは構わないけど、迷子にならないようにね」
リーディガルはどうも余所見をしながら歩くクセがあり、いつのまにか一人でどこかへ行ってしまうのだ。
「はい。僕は兄さまのお側を離れません」
リーディガルは強く頷いて、ルインフィートの手を握り締めた。
「あ、いや、別に手は繋がなくても……」
苦笑するルインフィートに構わずに、リーディガルは嬉しそうに微笑んだ。二人の様子を黙って眺めていたハルマースの眉が僅かに動いたのを、ルインフィートは見逃さなかった。
(リーが居ると、あいつの機嫌が悪くてしょうがないな)
ルインフィートはやれやれとため息を漏らした。
三人は町外れの、ルイム兄弟の暮らすザハンの邸宅へと向かった。彼らにはいろいろ散々な目にも遭わされたが、助けになってくれたのも事実だ。
見慣れた、鉄の刺に彩られた物々しい門を潜り抜けると、庭で末弟のセリオスが洗濯物を干していた。
「かわいそうに」
「ジロジロ見てんじゃねーよ! 何の用だこの野郎!」
思わず呟いてしまったハルマースの声が聞こえてしまったらしく、セリオスはイキナリ彼らに向かって怒鳴りつけてきた。ルインフィートとハルマースはくすくすと笑っていたが、リーディガルは粗野な言葉遣いの彼に嫌悪感を剥き出しにした。
「にいさま、酷い無礼者です。子供だからって許されませんよ、その態度」
ルインフィートの手をぎゅっと握り締めながら、リーディガルはセリオスを睨みつけた。
「ンだとコラァ!」
見たところあまり歳の変わらない人物に、子ども扱いされてはたまらない。セリオスは洗濯物を籠に置いて、リーディガルの側へとずかずかと歩み寄った。そしいて彼に顔を近づけて、見下ろすようににらみをきかせた。
その時、セリオスの声が聞こえたのか、ガーラが家から出てきた。ガーラはやれやれとため息をついて彼らに歩み寄った。
「悪いね、知性の無い奴で」
「ンだとクソアニキ!」
ガーラの一言にセリオスはまたかっとなって、顔を真っ赤にしてガーラに突っかかった。
「俺たち、今日国へ帰るんだ。君にもいろいろ迷惑かけたね」
苦笑を交えながら、ルインフィートはセリオスの手を軽く握った。セリオスは引きつりながら、握られた手を嫌そうにはたいた。
「に、にいさまに対してなんという……!」
リーディガルは怒りを露にして、セリオスに掴みかかろうとした。しかしすぐにルインフィートに肩を捕まれて、宥められた。
「まあまあ、この子はかわいそうな子だからそっとしておいてあげて」
晴れ晴れとした笑顔でそう言うルインフィートに、セリオスはますます腹を立ててぷんすか吼え散らかした。
「かわいそうな子ってなんだ! かわいそうな子って!
そもそも、お前らのせいで……そうだ、オメーのせいだよ、この長髪!
オメーのせいでジュネ夫が出て行って俺が家事やらされてるんだぞ!」
セリオスは噛み付かんばかりの勢いでハルマースに向かって吠え掛かり、彼の服の胸ぐらを掴んだ。しかし、小柄なセリオスの頭は背の高いハルマースの肩にも届かない。あまりにも滑稽な様子に、彼の態度に苛立っていたリーディガルまでもが思わず笑い声を吹きだした。
「わ……笑うなよウワーン!」
セリオスは急に恥ずかしくなり、洗濯物を放置して泣きながら家の中へと駆け込んでいってしまった。
「家事を途中で投げ出すなんて、あとで叱っておかないとな」
腕を組み、残された洗濯物を眺めながらガーラが言った。彼は一瞬不気味な薄笑いを浮かべたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「で、お前達、サントアークに帰るんだっけな。わざわざ最後に俺に会いに来てくれたわけだ」
「そ、そうだよ。お前には散々な目にも遭わされたけど、世話になったことのほうが多かったな」
俯いて、感傷的な張りの無い声でルインフィートが言った。傍らに立っていたハルマースは、そんなルインフィートを見て不機嫌そうに視線をよそに向けた。
「ガーラさま、僕もお世話になりました。あなたに助けられ、こうして無事に兄さまに会えました。心から感謝します」
リーディガルは愛くるしい笑顔を浮かべて、ガーラの手を両手で掴んだ。ガーラは穏やかに微笑んで、軽く礼をした。
「いえいえ、どういたしまして」
風が吹いて、ガーラの銀色の髪が光を纏って揺れていた。彼の黒い一面を知らないリーディガルはすっかり魅入られて、うっとりと頬を染めてため息を漏らした。
ルインフィートは弟の様子が少しおかしい事に気がついて、慌てたようにリーディガルとガーラの間に割って入った。
「じゃ、じゃあ、またな! 一緒にメシでもって思ったけど、やっぱもう帰るわ」
「なんだ急に、つれないな」
ガーラは不敵な微笑みを浮かべて、ルインフィートの身体を引き寄せて抱きしめた。そしてそのままの勢いで顔を近づけて、ルインフィートの唇に口付けた。
「ガーラ! このヤロ……!」
今度はハルマースが慌てて二人の間に割って入り、ルインフィートからガーラを引き剥がした。
ガーラは声をあげて笑い出した。
「そうムキになって怒るなよ、お別れのキスだよ」
「例え挨拶だとしても許さん」
ハルマースは今にもガーラに殴りかかろうとせんばかりの勢いで、彼に掴みかかろうとした。しかしルインフィートが必死に彼の身体を羽交い絞めにして、制止した。
リーディガルは三人の様子を呆然と眺めていた。目の前で自分の兄が男に口付けされるという光景を見るのは、さすがに初めてのことだった。
「に、兄さま……ガーラさまとはどのようなご関係で……」
「どのような関係でもございません! この男は、手当たり次第に誰にでもいかがわしい行為を強いるのです!」
ルインフィートが応えるよりも先に、ハルマースが叫んだ。今までもやもやしつつも冷静につとめていたのが一気に爆発したようで、感情をむき出しにしてまたガーラに掴みかかろうとする。
こんなに取り乱すハルマースの姿を見た事がなかったリーディガルは、大きな目を更に見開いて呆然としていた。
「お、おちつけよ、ハルマース」
ルインフィートはハルマースの前に回って、背中に腕を回して肩に頬を寄せた。そして、暴れ馬を宥めるように彼の背中をぽんぽんと叩いた。ハルマースは少し落ち着いたのか肩を下げて、掴みかかろうとするのをやめた。
「ヨシヨシ、ハルマース」
ルインフィートはにっこりと笑った後、ハルマースに顔を近づけ、口付けをした。
「愛してるよ。きっとずっとこれからも」
ルインフィートはもう一度ハルマースに口付けた。リーディガルはぽかんと口を開けたまま動かなかった。口付けされたハルマースも驚いてしまい、戸惑いの表情を浮かべていた。
そして、ガーラは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「弟の前だぞ、自重しろ」
腕を組み、いかにも苛立った様子で二人に警告した。
ルインフィートはハルマースから離れて、悪戯な微笑みを浮かべた。そしてリーディガルに近づき、耳元で囁いた。
「父さまにはナイショだよ、リー」
「し、信じられません!」
リーディガルは我に帰って、頬を真っ赤にして兄を非難し始めた。
「あなたはここに来て、不潔な同性愛を楽しんでいたというのですか!」
「不潔じゃない。本当に愛してるんだ」
なんの躊躇もなく吐き出された兄の言葉に、リーディガルは眩暈を起こしそうになった。そしてその非難は自然とハルマースに向けられた。
「ハルマース……。お前のせいだ! お前のせいで兄さまの頭がおかしく……」
「俺は愛に性別は関係ないと思ってるよ。なんだったら俺が君に、教えてあげようか?」
わなわなと震えるリーディガルの身体を、包み込むようにガーラが抱きしめた。リーディガルの鼻を、ガーラの香水の臭いが掠めた。
ガーラの手が腰に回されて、そのまま下へと伸ばされる。尻を撫でられて、リーディガルは驚いてびくりと身体を強張らせた。
「が、ガーラさま……!」
「駄目ー!!」
物凄い剣幕で、ルインフィートは再び彼らの間に割って入った。
「ガーラ、僕の大事なかわいい弟にまで手を出そうとするな!」
「に、兄さま……」
リーディガルはぎゅっと兄の腕に抱きついて、頬を染めて俯いた。ルインフィートは弟の頭を、掴まれていない方の手で撫でた。
「兄さま、僕が大事なら……ハルマースをこの街に置いていってください。ハルマースは兄さまをダメにしてしまう! 二人だけで帰りましょう」
ルインフィートは笑顔でリーディガルをガーラに突きつけた。
「ガーラ、俺の弟に愛ってやつを教えてやってくれ。俺たちは先に国へ帰る」
「わかった。お前の頼みなら仕方が無いな」
「ひ、酷いです! 兄さま!」
リーディガルは帰ろうとするルインフィートの背中に追いすがった。ルインフィートは容赦なく冷たく、リーディガルを払いのけた。
「ごめんなさい兄さま、今のはほんの軽い冗談です! 僕を置いていかないでください!」
「ルインフィート様、さ、さすがにリーディガル様がお可哀想です」
ハルマースが冷や汗をかきながら二人の仲裁に入ろうとした。ルインフィートはようやくリーディガルに振り返り、腕を組んで弟を見下ろした。
「……前にも言っただろう? 僕の親友を侮辱するなって」
「は……はい……」
リーディガルは青ざめた表情で、ルインフィートに返事をした。
兄とハルマースの関係に言及してはいけない。そう心に刻み込みながら。
ルインフィート達はザハン邸を後にし、コテツとつかさの住む家に向かった。そこで二人に別れと感謝を述べた後、馬車に乗り込み船の泊まっている港町へと移動した。
迎えの船は、あちこちに大砲を積んだ軍艦だった。港町の人々は大きな軍艦の影に怯えている様子で、一刻も早く船が出るのを待ち望んでいる様子だった。
ルインフィートはやれやれとため息をついた。
「正義と秩序の国……か。傍から観ると恐怖の軍事国家でしかないな」
「自国のことをそんな風に仰らないでください」
ハルマースが手を引いて、ルインフィートとリーディガルを船の上へと導いた。
三人を乗せた後、船はすぐに出港してワートを離れた。風の無い晴天で、船は順調にサントアークへの帰路を辿って行った。
⇒NEXT