駄目兄貴
サントアーク城下の一角に広大な敷地を持つ学園があった。名前はドラグーン王立学園といった。
この学園は由緒ある古き名門校で、主に貴族階級の子供達が通っていた。将来国に仕える為の知識と技術をこの学園で学ぶのである。
ハルマースがサントアークの首都ソルティアに身を置いてから一年が過ぎた。
体調の事も踏まえてしばらく自宅で専属教師から学問を学んでいたが、本人の強い希望により秋から騎士の養成教育の学部があるこの学園に編入する事になった。集団との協調性と自立心を養う為に全寮制となっており、ハルマースは父元を離れ寄宿舎に行くこととなった。
相変わらずダルマースの邸宅に入り浸っていたルインフィートは、この話を聞き動揺を隠せなかった。ハルマースが寄宿舎に行ってしまったら、なかなか彼に会えなくなってしまうのである。
ルインフィートとハルマースとは良い友達関係にあった。王子という特別な境遇が故大人に囲まれて育っている為、ルインフィートは同世代の友達には恵まれていなかった。
学問は専属教師に個室で弟のリーディガルと一緒に学んでおり、学校というものには通っていなかった。
友達が居なくなってしまう寂しさを感じると同時に、学校への興味がふつふつと沸き出してしまった。ルインフィートはダルマースに相談を持ちかけた。
「僕もそこに行けないかな?」
ダルマースは困惑した。彼は王子の教育を任されているわけではない。相談を持ちかけるべき相手はもっと他に居るはずだ。
「教育係に相談を持ちかけては如何」
「反対されるに決まっているじゃないか」
ルインフィートはダルマースの言葉を遮って反論した。彼は自分の自由が利かないことを身に沁みて痛感している。
「では父王に……」
言いかけてダルマースは言葉を喉に詰まらせた。この親子の間に深い溝があることは十分に承知だった。ルインフィートはすがるような眼差しをダルマースに向けた。
「ダル……僕の頼みを聞いてくれるのは君しかいないんだ」
ダルマースは軽くため息をついた。そっと小さな王子の手を取ると、うやうやしくその甲に口づけをした。
「わかりました。
何とか致しましょう、我が君」
ルインフィートの表情がぱっと華やいだ。
次の日からダルマースは学園関係者への根回しを始めた。ルインフィートの父王のエルザールに報告するとあっさりと許可を得ることができたため、ルインフィートは苦労することなく入学を許可された。
学園を守る為にダルマースの直属の部下達が警備に配置され、王子を含め生徒達の安全を守ることとなった。寄宿舎はハルマースと同室にし、彼に王子の身の回りの世話をさせることにした。
不安があるとすればそれは、王子自身の学力である。学園には超一流の生徒ばかりが集まっている。
お世辞にもルインフィートは頭がいいとは言いがたい子供だった。
「きちんと勉強しないと、他の者達に示しがつきませんよ」
ダルマースはルインフィートにしっかりと釘を刺した。
ルインフィートの入学が決まったと知り、弟のリーディガルは愕然とした。リーディガルはその話を、全く知らなかったのである。
猛反対されると思ったルインフィートが、彼にだけ秘密にしていたのだ。
しかしその話は噂が広がるにつれ、自然とリーディガルの耳にも入ってしまった。
夜、リーディガルは兄の部屋に赴き、兄を問いただそうとした。扉を開けると既に部屋は片付けられていて、ルインフィートはぼんやりと窓の外を眺めていた。
「にいさま、あなたはまた勝手なことを……!」
リーディガルの怒気を孕んだ声に、ルインフィートは苦笑いした。
「ごめんねリー。僕は外の世界に興味があるんだ」
リーディガルは首を横に振った。
「違うね、にいさまはここから逃げ出したいだけなんだ」
弟のまなざしがルインフィートには痛かった。
「リー、一緒に行こう」
ルインフィートは弟の手を取った。しかしその手は振り払われた。
「僕は行かない。
僕は今までどおりここで学ぶ。人を統制するための教育をね。
王子としての自覚と責任を忘れはしない」
リーディガルは兄を睨み付けていた。ルインフィートは微笑んでいた。自嘲するように。
「僕は君の反面教師だね」
呟くとルインフィートはリーディガルの前に跪き、手を取ってその甲に軽く口付けをした。兄王子に服従の作法を取られてリーディガルは足元が軽くふらついた。
「にいさま……あなたには誇りというものがないのですか!?」
「ないねー」
怒りに震えるリーディガルの前でルインフィートはヘラヘラと笑って見せた。
「リーディガル、君は僕の自慢の弟だ。素晴らしいよ。
優秀で誇り高いサントアークの王子の鑑だよ」
嫌味ではなく本気で言ってるのだろう。ルインフィートは弟の身体を強く抱きしめた。美しい金髪がリーディガルの頬に触れる。施されている香料がほのかに薫った。
「にいさま……」
「リー、ごめんね、僕はダメな兄だ」
弱弱しい声でルインフィートは呟いた。弟の髪を優しく撫で上げると、額にそっと口付けした。リーディガルは大粒の涙を流し始めた。
身勝手な兄だがやはり彼にとってルインフィートはかけがえのない存在だった。
「にいさま……行かないで……僕を置いていかないで……」
彼は兄の胸に顔を埋めて嗚咽をもらした。
「リー……ごめんね……時々は城に戻るからね……」
ルインフィートは弟に黙っていたことを少し後悔した。
自分のことしか考えていなかったことに深く反省した。
次の日早朝にリーディガルは一人ダルマースの邸宅へ赴いた。いつもとは違う方の王子の来訪に邸宅の使用人は困惑したが、あっさりと押し切られて中に入れてしまった。けたたましく広間の扉が蹴り開けられた。
「ダルマース! 居るか!?」
中の部屋では親子が朝食を摂っていた。突然の騒動に二人はぽかんと「ハシ」を持ったまま固まっていた。
「お、王子……如何様な御用で」
ダルマースは一呼吸して箸を置いた。リーディガルは座っているダルマースの襟元を掴むと、顔を近づけて睨み付けた。
「お前が兄を甘やかすせいでどんどんダメになっていく。
何が狙いだ? 兄を骨抜きにして操るつもりか!?
見解を述べよ!」
「父を侮辱するのか!?」
ハルマースが立ち上がった。途端、リーディガルの持っていた鞭が空を切りひゅっと音を鳴らした。
「誰に向かって口を訊いている!」
鞭はハルマースの胸を直撃し、小気味の良い音を立てた。ハルマースはおとなしく席に座って、黒髪の王子を睨み付けた。二人の間に嫌な空気が漂った。
リーディガルは躊躇いもなく、ハルマースの頭髪を掴んで引っ張り寄せた。痛みに彼の顔が歪む。
「ハルマース、お前がここに来なければ……!」
「リーディガル様お止めください!
私が悪いのです。息子を離して下さい」
ダルマースはわずか十歳の少年の前に平伏した。リーディガルはふっと我に帰り、ハルマースから手を離した。ダルマースの頭頂部が目下に見える。
サントアーク最強の男が、自分の息子を助ける為に子供である自分の前に平伏す姿を見てリーディガルは胸に熱い物がこみ上げてきた。兄王子がこの親子に惹かれる理由が易々と掴み取れる。
息子は父のために目上の存在にある自分に立ち向かい、父親は息子のために将軍としての誇りを捨てる。二人の強い絆に憧れるのだ。
ダルマースは跪いたままリーディガルを見上げた。
「見解を述べます。
ドラグーン王立アカデミーは名だたる名門校です。
そこで学ぶことは王子にとって良き経験になるのではないかと……」
「屁理屈を申すな!」
鞭の音が鳴り床を叩いた。リーディガルは言われたとおり見解を述べ始めたダルマースの言葉を制した。
ダルマースは苦笑した。どうすればご機嫌を修復できるのかと考えた。
その時、部屋に二人目の訪問者が現れた。今度はいつもの王子のほうである。
平伏しているダルマースと鞭を持つ弟、そしてその弟をにらみつけているハルマースを見て、彼は一瞬にして状況を把握した。
「またハルマースをいじめてたのか、リー」
「いじめではありません!」
リーディガルは顔を真っ赤にして反論した。
「この親子はにいさまに取り入り将来サントアークを乗っ取るつもりで」
「リーディガル!! そんなこと言うな!!」
ルインフィートは弟を怒鳴りつけた。怒りに満ちた眼差しを向けている。
リーディガルは背筋が寒くなり、言葉を飲み込んだ。
「僕が勝手にダルを頼っているんだ。
彼らには何の罪もない。あるわけがない。
リーディガル、君は何をそんなに憂いているんだ?」
ルインフィートは弟の震える手を掴んだ。
「僕のことを心配してくれているのはわかる。
だけどこれは少し行き過ぎだ」
リーディガルの手から鞭を取り上げた。どこでこんなものを手に入れたのだろう。ルインフィートは小首をかしげた。
黙ってみていたハルマースがふと言葉を漏らした。
「リーディガル様は良くないことばかり考えてしまうようだ。
誰か居るんじゃないか? あなたに父の悪い噂を吹き込む輩が……」
いくら優秀とはいえ十歳の子供が策略めいたことに疑心暗鬼になるなど、大人の入れ知恵無しには考えにくいと思っていた。
リーディガルはまたハルマースに掴みかかった。
「図星だろうか?」
ハルマースは不敵な微笑をもらした。リーディガルは彼を突き放した。
「リー、そうなのか?」
兄の問いかけに、リーディガルは返事をしなかった。
「誰なんだ? 何故僕に黙っていた」
ルインフィートはリーディガルの肩を掴み、瞳を覗き込んだ。リーディガルは目をそらした。
「にいさまだって僕に内緒で勝手なことやってるじゃないか……」
消え入りそうな声でリーディガルは言うと、兄に顔を向けなおした。
「僕は僕の信じる道を行かせてもらう。
将来あなたが道を踏み外したら、僕が前に立ちはだかろう」
リーディガルは不敵に微笑んだ。ルインフィートは弟の見た事のない表情を見て困惑した。
「リー……?」
リーディガルは肩の兄の手を引き剥がすと、そのまま何も言わずに部屋から出て行った。ルインフィートは黙ってうつむいてしまった。
「追わなくていいのですか?」
ハルマースの問いかけにルインフィートは黙って頷いた。
「もう僕の話なんて聞かないだろう。
僕は……僕は本当にダメな兄だ……」
ルインフィートは足元から崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。ダルマースは黙って彼の涙を拭ってあげた。
ハルマースはいてもたっても居られなくて、駆け出してリーディガルの後を追った。
リーディガルにはすぐに追いついた。門の前に馬を待たせていた。追ってきた足音に気がつき、リーディガルは振り返った。
追ってきたのが兄ではなく、ハルマースだったことに軽く落胆した。
「ハルマース、何だ?」
「ルインフィート様はダメな王子などではありません!」
息を切らしながら言うハルマースを、リーディガルは鼻先で笑った。
「そんなことは誰よりもこの僕がわかっている。
わざわざそれを言いに来たのか?」
ハルマースは大きく首を横に振ると、王子の前に跪いた。
「ルインフィート様のことは私が命に代えてもお守りします。
取り入ろうなど考えた事もありません。
我々を誤解しないで頂きたいのです」
実直な眼差しがリーディガルを捉えた。
「まだ騎士にもなっていない少年が誓いを立てるのか?」
「私は王家に仕える騎士に成る為に生まれた男です。
ゼノウスの名に恥じない強く聡明な男になる為に、学園に行く事を決意しました」
「……お前は心の臓を患っているという話を聞いたが。
無理をしてかえって兄を悲しませる結果になることは考えたことは無いのか?」
「……それは……!」
リーディガルの言うことはいちいち正論だ。ハルマースは言葉を喉に詰まらせた。
強い風が吹き枯葉が宙を待った。
「安心しろ、ハルマース。僕はお前を疑ってなどいない。
お前以上に生真面目な男は見た事がない。
だが……父親は別だ」
リーディガルの言葉にハルマースは息を飲んだ。
「父が道を踏み外したときは、私が父の前にたちはだかります」
ハルマースの言葉にリーディガルは苦笑した。
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