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夜の祈り
 月が綺麗な夜だった。汚れも痛みも何もかも、包み込んで癒すような淡い光が辺りを照らしていた。寝室の寝台に横になりながら、彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 彼の名前はルインフィート・サントアーク。諸事情によりお忍びで家出をしている、西の大国サントアークの王子様である。冒険者の間では偽名を使い、エストファールと名乗っていた。
 ルインフィートの寝台の向かい側には、彼の連れの痩身の青年が静かに横たわっている。青年はサントアーク王家に仕える騎士である。名前はハルマース・ゼノウスといい、彼も普段は偽名を使いマディオラと名乗っていた。父である大将軍に命じられて、王子の身の回りの世話と警護をしている。
 ハルマースは静かに眠っていた。青白く照らされる頬。微塵も動かない体。生気を感じないその姿を見て、ルインフィートは不安に駆られて寝台から降り、青年の側に近づいた。
「ハルマース……?」
 ルインフィートは、彼の枯れ草色の、腰まで届きそうな長い髪に、そっと指を通した。青年は僅かに顔を動かし反応を示した。彼が静かに寝息をたてているのが聞こえる。
 ハルマースは生まれつきとある病気を持っているらしく、王子の警護どころか時折自分が倒れる男だった。
 死んだように眠りにつかれると、本当に死んでしまったのではないかと、ルインフィートはいつも不安にかられていた。
 彼が無事であると言う事を確信すると、ルインフィートはほっと安堵のため息を漏らし、再び窓の外の月を眺めた。
「今の時間、いつも腹が減るんだよな」

 部屋にいるのを窮屈に感じたルインフィートは、少し部屋を出て散歩をしようと思った。部屋の棚からこっそりと、好物の菓子パンと果実酒を持ち出して、近くの公園に赴いた。
 夜はまだまだという時刻で、まばらながらに人影を見ることができる。噴水の前の椅子に腰掛け、ここいらで月見酒と参ろうかというその時、不意に何者かに声をかけられた。
「エストファールじゃないか。こんなところで、何してるんだよ」
 エストファール……ルインフィートに声をかけたのは、彼らが旅の途中に出会い、行動をともにしている青年だった。諸事情で生き別れた兄弟を探していたが、無事今この街で出会うことが出来、今はルインフィートたちとは別にその兄弟と共に暮らしている。
 青年の銀色の柔らかい髪が、月の光に透けて青白い空気をルインフィートに落とす。碧の瞳は、澄んでいながら深い森を思わせるような静かな光をたたえていた。透ける様な白い肌が、月の光を浴びて、ぼんやりと鈍く光っているかのように見えた。
「ガーラ、お前こそ何してんだよ」
 ルインフィートはこの青年に問いを返した。ガーラはルインフィートに優しく微笑みかけながら、散歩だよと呟き、隣に腰をおろした。
 ルインフィートは手に持っていた果実酒をガーラに差し出した。
「飲む? ってお前、聖職者か。酒飲んでいいんだっけ?」
 ガーラは月の神を信仰している。出会った頃から神聖魔法を操る剣士……職業的に言うと神聖剣士だった。ルインフィートは彼の治癒魔法に何度も命を救われ、尊敬と共に感謝していた。
「ありがとう、いただくよ」
 ガーラは果実酒をゆっくりとその手に取った。

 栓を抜き、ぽん、といい音をさせた瞬間、ガーラはいきなり果実酒を一気飲みし始めた。あまりにも突然の行動にルインフィートは一瞬呆然となったが、すぐに一気飲みを制止させようとガーラの腕をつかんだ。
「お……おいちょっと!! 俺の分も残してくれよ!!」
 しかしもう瓶の中に果実酒は僅かしか残っていなかった。ルインフィートは彼の突然の奇行にあっけにとられた。しかしぼんやりする暇もなく、いきなりガーラはルインフィートの顎を強く掴んだ。
 抵抗しようという意志も持たれぬうちに、ガーラはルインフィートに口付けをした。顎を開けさせて、ガーラは口内に残っていた果実酒を、ルインフィートの口腔へと流し込んだ。
「うっ……ゲホッゲホッ!!」
 たまらずルインフィートはむせかえってガーラを突き放した。
「なっ……なにすんだよ!!」
 ルインフィートはさほど慌てる様子もなく、ただいぶかしげな顔をして見せた。苦労をしてきたせいなのか、時々ガーラは、情緒不安定に陥ることがあった。
 付き合いもそこそこ長いため、多少の奇行ではあまり驚かなくなっていた。
 ガーラは何事もなかったように、にこにこと笑っていた。
「ごめんね、いつも」
 にこにこしながら、ガーラはルインフィートの金色の髪をくしゃくしゃと撫で始めた。その手はやがてルインフィートの頬へと移った。優しく頬を撫でながら、ガーラはルインフィートの蒼い瞳をじっと見つめていた。
「ガーラ……、や、やめろよ、みんなこっち見てるよ……」
 公園に散歩に来ていた町人や冒険者達が、ちらちらとこちらに好奇の視線を浴びせてくる。
 しかし人の目などお構いなしに、ガーラから微笑みが消え今度は彼は涙を流し始めた。ルインフィートの肩に倒れ伏し、ぼろぼろ泣いている。
「ちょっ……なに泣いて……」
 何がなんだかもうわからない。ルインフィートはただ彼が静かにおさまるのを待とうとした。

 程なくして、噴水の向こうに青白い人影が映った。人影は二人に近づき、立ち止まった。その人影は、青いローブを身にまとった魔術師風の男だった。
「ああ、ここにいましたか、ガーラ君」
 その男の顔はまだ、少年のような面影を見せている。ルインフィートは彼を、ザハンという男だと認識した。
 この街でガーラ達兄弟の世話をしている男。それくらいしかこの魔術師について、ルインフィートは知らなかった。魔術師はしゃがみこんでガーラと目線を合わせた。
「おうちに帰りましょう? ……ね?」
 まるで泣きじゃくる子供をあやすように、魔術師はガーラの手を握り締めた。こくりとガーラは頷き、涙をぬぐい始めた。訳が分からないままとりあえず一件は落着し、お迎えが来たところで、ルインフィートはその場から逃げるように、自らが借りている部屋に戻ろうと立ち上がった。
「じゃ、じゃあ俺はここで……」
 しかし、魔術師ザハンはルインフィートの腕を掴み引き留めた。
「一緒に来てくれませんか……?」
 ザハンの大きな少年のような瞳が、すがるようにルインフィートを見る。
「え、あ、それは……べ、べつにかまいませんけど……」
 彼らの家に行くというのは、実はルインフィートにとって少し嬉しい事だった。ガーラにはローネという美しい妹がいるのである。ルインフィートはその彼女に、好意のような淡い感情を抱いていた。
 ローネという少女は気高く、凛とした少女だった。今までちらりと姿を見るだけで、あまり口をきいたことがなく、いつかちゃんと話をしてみたいとルインフィートは思っていた。
 彼女に会える……しかもこんな夜更けに。そう思うとルインフィートは気持ちが弾んで仕方がなかった。
 だが、部屋に残してきたハルマースのことが気にならないわけではなかった。ガーラが落ち着き、気が済んだらすぐに部屋に帰ろうと思いながら、ルインフィートはザハンの屋敷へと足を運んだ。
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