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油断
 一筋の光もない闇の中の、冷たくてごつごつとした岩壁の上に、男は捕らえられていた。
 目に見えない鎖のような感覚のものが、彼の四肢を拘束していた。
 ここに張り付けられて何年になるのだろう、男……リムーダーはもう時間の経過が解らなくなっていた。
 暗闇の中に、自分の呼吸と心臓の鼓動の音だけが響いている。
 食べる物もなにも与えられていない彼の鼓動は、まるで変温動物が冬眠に入ったかのようにゆっくりと動いていた。
 常人ならば二日もいれば気の狂いそうな陰惨な空間の中、彼は理性を少しも失う事なく、ただひたすらに瞑想に耽っていた。
 離ればなれになってしまった、子供の無事を願っていた。

 彼をここにはりつけたのは、ルイムの七賢者の生き残り、死霊魔術師のレイアだった。リムーダーは過去にも何度か、この女にひどい目に遭わされている。
 魔族と呼ばれる者たちは女性の出生率が低いそのぶん、総じて男性よりも強力な魔力を所持し、残酷な性格をしているようだ。
 なぜあの女にかなわないのかと、リムーダーはぎゅっと奥歯を噛みしめた。

 なんとかしてこの陰気臭いところから逃げ出さないと、大変なことになるとリムーダーは危惧していた。
 レイアは邪悪な意志にとりつかれている。
 彼女の願いはこの、地下に埋もれ遺跡となり果てた国家の復興だった。
 もはや生者のいない過去の国を蘇らせた所で、そこはさまよえる死者の巣窟となるだけである。
 レイアの呪術の言葉が、リムーダーの脳裏に焼き付けられていた。
月が真昼の太陽を覆い隠すとき
太陽の皇子の血肉を捧げよ
炎の中より闇の魔王が蘇り
世界は暗闇に包まれ
真の静寂と安息がもたらされるであろう

闇の魔王に器を与えよ
さすれば魔界の門は開かれて
魂は不滅のものとなり
未来永劫の幸福に満たされるであろう
 魔王の復活に必要なものは、魂と器。
 器の資格を持つものは、魔族の村――魔界の門の守護者、リムーダーだった。
 復活に必要なもののもうひとつの「魂」は、魔王を封じたサントアーク王家の王子の魂だった。魔王は金色に輝くサントアーク王家の血脈を呪った。
 しかしサントアーク王家の者は強力な太陽という星の加護により守られており、レイアが直接城に入り込み、手を下すことが出来なかった。
 そこでレイアは、「草」を放った。
 軍に掌握されている政権を密かに逆転させようという野心を持つ、サントアークの国教の神官もそそのかして利用し、内部からの崩壊を促そうとした。
 しかしその草の一人が、レイアの思惑どおりには育たず、光の加護のもと命令に背きサントアーク人になり果ててしまった。
 その草は、サントアークを護る強力な壁になってしまった。
 レイアは、自分の計画がうまく行かなかったことに対し、気を高ぶらせていた。

――使える部下が必要だ。胸に憎しみを秘め、暗い瞳を持つ者が。

 レイアはガーラを狙った。彼こそ求めていた人材だった。おまけに、サントアークの王子も側についている。
 ガーラを味方に引き込めば、サントアークの王子の魂を奪うのはたやすいことだと考えた。
 レイアは放っていた偵察から、ガーラの記憶が取り戻されたと言う事を知った。
 心が不安定なこの時こそと思い、彼女は滅多に赴くことの無い地上へと出ていった。
 しかし急ぎこのリムーダーの側から離れてしまったのは、失敗だった。
 レイアが油断し自分の暗闇の巣から出てゆくのを、見張り狙っている者の存在を、彼女はすっかり忘れていた。

 リムーダーの瞑想に、初めて他人からの呼びかけが入った。脳裏に浮かぶのは、いつも喧嘩ばかりしているこ憎たらしい弟の顔。
 弟……ザハンは、苦しんでいる兄の様子をみて、にこりと爽やかに微笑みかけた。
「いやーぁ、いいザマですね!!」
 この期に及んで悪態をつくこ憎たらしい彼の態度に、リムーダーは全身の血液が沸騰してしまうのではないかというほどの怒りを覚えた。
「この、愚弟が!!」
 リムーダーはザハンに対し、攻撃的な思念を送った。
「おやおや、感心しない態度ですねー。
 あなたは今の自分の立場が解ってないようですねえ」
 ねちっこくいびってくる弟に、リムーダーは心底腹が立った。
 こんな奴に助けられなくていい。むしろ借りを作ってしまったら、後でどんな代償を払わされるか解ったものではないと思った。
「とっとと失せろ!! わたしの瞑想の邪魔をするな!!」
「そうはいきません」
 リムーダーの言葉を無視して、ザハンは空間を飛び越えて、兄のもとに姿を現した。
 ザハンはうさぎの着ぐるみを身にまとい、その右手には淡く輝く棒状の不思議な物体を携えていた。
 相変わらずといえる弟の意味不明の服装の趣味にリムーダーは眩暈をおこし気を失うところだった。
「早くしないと、レイアが戻ってきます」
 ザハンは手にもっている不思議な棒で、リムーダーの両手両足を戒めていた見えない鎖を取り払った。
 どうやらその棒は、魔法的物質を取り払い、吸収するものらしい。
 しばらくぶりに自由になったリムーダーの身体は、そのまま地に倒れ伏した。著しく体力が奪われ、自力で身体を動かすことも出来ないほどに衰弱していた。
「ああ……これは酷い。今にも死にそうじゃないですか。まったく、イケニエはもっと大事に扱うべきですね。
 さあ、こんな所さっさと出てゆきましょう」
 ザハンはリムーダーの身体を抱えあげ、その場から去ろうとした。
「待ちなさい!」
 玄室の入り口のほうから、女の声が響いた。レイアが戻ってしまった。
「まちな……さい……」
 レイアは額の邪悪な瞳から血を流し、どこか弱っている様子で息を切らせながら、二人に近づいてきた。
 はて? とザハンは思ったが、とにかく弱っている兄を何とかする方が先である。
 レイアが苦しんでいる隙に、ザハンは転移の術を唱えその場から姿を消した。


 ザハンはかつてルイムの首都だったルナイハイムという街に降り立った。
 街は治安が悪く荒れていたが、それでも崩壊直後と比べるとだいぶマシになってきているようだった。
 街の状況の沈静化に、ある人物が力を注いでいた。その人物は自分のことを省みず、生活を捧げて復興に勤めていた。
 彼女の名前は、ローラ・ルイム。この国の、王妃だったものだ。そして、かつてザハンと恋仲だった女性だ。
 彼女は街の外れに仮の神殿を建てて、そこで市民の生活を支えていた。

 ザハンは彼女の神殿に赴き、酷く衰弱したリムーダーの治療を依頼した。
「ああ、これは酷いわ。レイアってなんて残酷な女なのかしら。虫唾がはしるわ」
 リムーダーを治療室の台に横たわらせて、ローラは顔をしかめた。彼女はレイアのことを目の敵にしていた。
「完治するまでに、時間が必要かもしれない。その間に、とっととやっつけちゃってよね、あんな女」
「はは、努力します。兄をお願いします、ローラさん」
 ザハンは乾いた笑みを漏らした。そして、言葉を続けた。
「ローラさん、私は近々、ガーラ君に会おうかと思っています。ワートの街に居るみたいなんですよ」
「そう……無事でよかったわ」
 ザハンの報告を聞いて、何故かローラの目は憂いを帯びた。
「ローラさんも、会いませんか? ここに彼を迎えたほうがいいでしょう」
 ザハンの提案に、ローラは横に首を振った。
「ガーラには苦労をさせてしまったわ。こんなところに戻させるより、自由に生きて欲しいの」
「そう……ですか。でもそれって、お互いにさびしくありませんか?」
 ザハンの眉尻が下がった。ローラはため息をついて、ザハンの手を掴んだ。
「あなたに……頼んでもいいかしら? ガーラや、ジュネ達のこと……。私は罪深すぎて、彼らに会える状態じゃないわ。
 この街が正常に戻って、ルイムに復興の兆しが見えたら……その時に会いたい」
 鋼鉄の神拳とまで呼ばれている強い女性の瞳から、涙がひとすじ零れ落ちた。ザハンは居たたまれなくなって、そっと彼女の肩を抱いた。
「ローラさん……わかりました。あなたのことは、ナイショにしておきます」
 穏やかな微笑みを浮かべて、ザハンはローラに約束した。
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