羽音
人里から離れ、外界から遮断された小さな村の時間は緩やかに過ぎていく。
村の守護者のリムーダーは、ガーラを取り巻く環境がどんなものだったか知っていたが、決して口にはしなかった。
自分が何者であるか、それだけをさらりと教えて、あとは彼自身の力での心の再形成を静かに見守った。
しかし記憶を失っている彼でも、心に染みている感覚で覚えている物があった。
それは月の神への信仰、祈りの言葉である。
月の神は癒しと安らぎをもたらす夜の神であり、同時に魔の守護神でもあった。
リムーダーは彼のために聖典を取り寄せ、読むと気持ちが落ちつくならばとガーラに与えてやった。
リムーダーの加護のもと、彼の息子であるつかさや村の連中との交流で青年の空虚な心は次第に満たされていった。
ある晴れた日、太陽が空のもっとも高い位置にさしかかろうとしている時刻に、ガーラは村のはずれにある大きな樹木の木陰で、一人静かに聖典を読んでいた。
向こうの空から、ぱたぱたと羽音がこちらに近づいてくるのを耳にすると、彼は立ち上がり空を見上げて、飛んでくるものに手を降った。
四枚の群青の羽根を器用にはばたかせて、近づいてくるのはつかさだった。その手にはなにやら篭のようなものが握られている。
つかさは目測を誤ったのか、地面に降り立つ際に勢い余ってガーラに激突し、彼を蹴り飛ばしてしまった。ガーラは背中を地面に叩き付けられる様にして、倒れこんでしまった。
「ご、ごめんガーラ! わざとじゃないんだ!」
慌ててつかさはガーラを抱えあげて取り繕う。背中を打ったガーラは息がつまり、ごほごほと咳き込みながらも、つかさに優しく微笑みかけた。
「ぜ、ぜんぜん平気さ……」
ガーラの優しい振る舞いに、つかさはホッと胸をなで下ろした。気を取り直して、つかさは手にもっている篭の蓋を開け、中の物をガーラに差し出した。
「お昼ご飯持ってきたんだ。一緒に食べよう」
それは小麦に酵母菌などを混ぜ合わせて、かまどでふっくら焼き上げたものに、薫製肉や野菜などを挟んだものだった。魔族といえど食べる物は普通の人間と変わらないらしい。
「ありがとう、いただくよ」
にっこりと麗しい微笑みを浮かべて、ガーラはそれを受け取った。口に運ぶと少し香辛料がきつかったのか、ガーラは涙目になりながらも、なおも微笑みを絶やさなかった。
ゆっくりと時間の流れる静寂な昼のひととき、二人は木の幹にもたれかかりながら、うとうととまどろんでいた。木もれ日と清々しい初夏の風が、ゆらゆらと眠気を誘っていた。
「平和だね」
背伸びをして、大きなあくびをしながらガーラは呟いた。
「父さんがこの森を守っているんだ。なるべく変化が起きないように」
つかさはぼんやりと微笑みを浮かべながら言う。
その言葉にガーラに一筋の動揺が走る。自分の来訪は、村に変化をもたらしたのではないか……と。
そんなガーラの心中を察したのかどうかは定かではないが、つかさは言葉を続けた。
「ガーラはこの森に好かれてるよ。
まるで昔からここにいたみたいだ……」
その言葉にガーラは気持ちが軽くなったのを実感した。
そう、自分はつかさと同じ生き物で……ここにいても、リムーダーの加護を受けてもいいんだという安心感に包まれる。
いつか記憶を取り戻せば、自分もこの少年のように空を自由に飛べる様になるのだろうか。自分にも飛べる翼があるんだと信じて……ガーラは、前向きに考えることにした。
つかさにとってもガーラの来訪は嬉しいものだった。突然自分に心優しい兄さんが出来たという感覚である。
彼はいつまでもこの時が変わらず続くと思っていた。
その夜、空には真円の淡い光が浮かんでいた。見つめると吸い込まれてしまいそうな程、美しい満月だった。
ガーラは与えられた部屋の窓から、じっとその光を眺めていた。
当然ながら、月は彼の信じる神の象徴である。崇め称え敬うものであるはずなのに、ガーラの心は不安に淀んでいた。
月明かりの前で誰かが自分を手招きしているような気がする。忘れてしまった記憶の一部なのだろうか、ぼんやりとその誰かの姿が、浮かんで見えてくるようである。
しかし、なぜか思い出してはいけない気がした。
満月に堕ちる……墜とされるという感覚に襲われ、ガーラの足元ががくりと震え出した。
顔面蒼白でなにやら尋常ではない様子のガーラに、うしろに控えていたつかさが心配そうに声を掛けた。
「ガーラ、どうしたの? 顔色悪いよ?」
ガーラは窓の外の月から目を逸らさずに、震える声で答えた。
「誰かが……そこに……」
言われてつかさは自分も窓の外を覗いてみる。しかし空には美しい満月が浮かんでいるだけで、いつもと変わらない情景が広がっていた。
「だれも……いないよ?」
いよいよどうしたのという様子で、つかさはガーラの顔をのぞき込んだ。
「そう……だよね……。
気のせい……だよね……」
蒼白なまま微笑むと、ガーラはその場にばたりと倒れて気を失ってしまった。
「ガーラ!?」
つかさはあわてふためいて、父のもとへと駆け出した。
うすぼんやりとした明かりの下の寝台に、ガーラは横たわらせられた。その部屋には窓がなく、外の様子は伺うことが出来なかった。
傍らに立つリムーダーが、うなされているガーラの汗と涙をそっと拭いてやっていた。その隣で心配そうにつかさも彼の手を握り締め、見守っていた。
リムーダーは沈痛な面持ちでガーラを見つめた。
「かわいそうに……よっぽど酷い目に遭ってたんだな……」
リムーダーとつかさは、夜が明けるまでガーラを見守っていた。
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