行方
ひどい言葉をかけてしまった。弟たちはきっと深く傷ついただろう。
しかしもう、言ってしまった以上取り返しはつかない。
冷たく張り詰めた表情を作りながら、ガーラは構えるローネの前に立ちはだかった。まだ十四になったばかりの少女の瞳が、憎しみの色に満ちている。
ローネは父親のことを慕っていた。ラージャは常には穏やかで、賢者を前にしても臆することなく気高い一面もあった。
ローネはラージャの表の顔しか知らない。それだけに、それを奪ったと信じて疑わないザハンのことが憎くてたまらないのだろう。
しかしローネはその瞳を閉じ、正拳の構えを解きガーラたちに背を向けた。
「アホらしい」
そう呟くとローネは、部屋の外へと一人出ていこうとした。それをとっさにライが引き留めた。
「待ってよローネ、どこにいくの」
少年は少女の細い手首をぎゅっと握り締めた。ライの表情からニコニコしたいつもの笑顔は消えていて、不安に揺らぐ瞳がローネの心に深くつき刺さった。
ライの見せた不安が、ローネが深くしまいこんでいた悲しみの土壌を揺るがしてしまったのか、少女は突然ボロボロと泣き出してしまった。
「どこへでも行けるわ……。私たち、帰る場所が、無いんだもの……っ」
「ロ、ローネ……」
ライはびっくりしてしまった。生涯いつも側についていたが、彼女が泣くところなど今まで一度も見たことがない。
それは他の兄弟とて同じだった。鬼のような妹の目に涙が宿るなど、尋常ではない事態だった。
ガーラはまたしても鬱な気分に陥った。彼女を泣かせたのは間違いなく自分だと。
頭の中でまた、ぐるぐると黒いものが巡って呆然としていると、脇からするりと父親が彼女の前に進み出ていくのを見た。
ローネの前に立つと、ザハンは彼女を優しく包み込むようにして抱きしめた。
「な……!」
驚きの声をあげたのは、ジュネだった。
父親を殺し国家を壊滅させたはずの、悪の賢者が、その被害者を慰めている。それはとても、異様な光景だった。
すぐにローネが我に帰って殴り飛ばされるだろうと、期待すらしながら黙って眺めていたが、ローネは驚いたのかびくりと肩を一度はねあげたきり抵抗をしなかった。
その光景を見てジュネは、引き続き呆然となった。
ローネがいまだ子供であることを、ジュネはすっかり忘れていた。
今まであえて子供扱いはせずに、一人の人間としてローネと接していたが、それは逆に彼女に強い人間であれという事を強いてきたのかも知れない。
苦しい時に支えてくれる、守ってくれる腕が必要だったのもしれない。
一人の人間として人格を形成するもっとも多感な時期に、彼女は住む場所を追われる事になってしまった。
いくら旅なれたとはいえ、今の彼女に必要なものは心を落ち着かせることのできる穏やかな空間なのかもしれないとジュネは痛感した。
ローネの手が、ザハンの長衣のたもとを強くつかんでいる。その手は幽かに震えているように見えた。
彼女は歯を食いしばり、必死に何かに耐えているようだった。敵に情けをかけられたことが、悔しいのかもしれない。
「私達の事も、殺せばよかったのに」
嗚咽交じりの、震える声でローネが言う。しかしザハンは黙って首を横に振って、彼女の頭を優しく撫でるだけだった。
「わからない……。いったい、何を企んでいるんだ……」
様子を見ていたジュネが苦々しく言った。様々な思いが頭の中をよぎっては消えていく。
ジュネはガーラの生存を知るまで、ザハンのことを憎き仇だと思って追っていた。ザハンに対する憎しみだけが生きている理由ですらあった。
しかしいざ対面してみたこの時、敵意が全く向けられないザハンの態度は、こちらからの敵意をそぎ落とされるほどのただひたすら気味の悪いものだった。
戸惑い揺れている二人の気持ちを、ガーラは見逃さなかった。
ここへ兄弟を連れて来た、本当の目的を言うのは今しかない。
今を逃したら、自分達はまた離ればなれになってしまう。
彼らをここにつなぎ止めるくさびを打ち込むのは、今しかないと直感した。
ガーラは気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした後に、呆然としている弟妹に告げた。
「ここで……皆一緒に暮らさないか」
先ほど見せた冷たい表情ではなく、穏やかな眼差しがガーラに宿る。驚きの余り、ジュネはもう何も言葉が出てこない。
「そのつもりでお前たちをここに連れて来たんだ。ここは俺の父さんの家だから……俺の実家って事になるよな。
だから俺はここに戻ろうと思ってるんだ。もちろんお前達も一緒だ。
父さんは、お前たちの敵じゃないんだ。わかってくれ」
そう言う兄の言葉がどこか遠く聴こえる頭の中、ジュネはなかば無意識で言葉を吐いた。
「いやだ……」
一歩二歩、ジュネはその場から引き下がった。腰がひけてきたというのだろう。本能的にザハンとの同居を拒んでいることを察して、ガーラはまたその表情を凍り付かせていった。
「もうお前を手放したりしないと言ったはずだろう?
お前たちはまた俺から離れてゆくというのか?」
威圧的に言葉を紡ぐガーラの瞳を、ジュネは直視することができなくなっていた。追い込まれている、苦しんでいる様子の弟に、ガーラはとどめを刺すような言葉を投げかけた。
「お前はまた、俺を見捨ててゆくのか?」
類まれにみる汚い言葉だと、ガーラは自分でも思った。そう言われたら、必ずジュネは動きが取れなくなるであろうことを確信していた。
いつのまにか、そこまでして兄弟をつなぎ止めておきたいと思う動機はもはや意地以外の何者でもなくなっていた。
そしてジュネはとうとう、ガーラの思惑どおり陥落せずにはいられなかった。
「わかったよ……兄さん……。
俺は兄さんを信じる……」
もはやぐうの根もでないといった消え入りそうな声で、ジュネは兄に泣きそうな顔で告げた。
なかば強制的にまとまりを見せてきた兄弟たちの様子を見て、ザハンはローネを腕に支えたまま、兄弟達に声をかけはじめた。
「あなたたちから全てを奪ったものの償いとしては安すぎますが、これからは私があなたたちをお守りします」
その時のザハンの表情は、いつもの作ったような笑顔ではなかった。
かくして兄弟たちは様々な障害と葛藤を経てこの場所に落ち着くことになった。
どこかへ出かけてもきちんと帰るべき場所があるというのは、彼らにとって大きな救いとなった。
もう以前のように、貧しい生活を強いられることがなくなった。特にローネは、自分の部屋が与えられたことをとても嬉しく思ったようだった。
家主のザハンは、自分の研究所でもある地下室から出てくることがあまりなかった。しかし、食事のときは外に出て、兄弟達ときちんと顔を合わせ、穏やかに接している。
父の仇だと思っている者と一緒に暮らすなんて、きっと複雑な心境だろう。ガーラはそう思ったが、あえて父親と過剰に仲良く振舞った。
ジュネはいつのまにか家事全般を自然と自発的にやるようになり、兄弟達の母親がわりを演じるようになってしまった。
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