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出発
 青年は口をつぐんでしまい、一歩後ずさってしまった。
「どうした? 彼は誰なんだ?」
 不審に思った少年が、青年に小声で問いかける。青年は苦虫を噛み潰したような表情で、傍らの少年にそっと告げた。
「彼は……ルイムの王子だ。いや……王家が滅亡したと言われてる今は、元王子というべきだろうか……」
「えっ」
 少年は目を見開いて、銀髪の青年へと顔を向けた。
 ルイムの元王子とおぼしき人物は、熱心に青年の方に関心を向けている。
「な、なぁ、俺は昔どんな奴だった? 君達は俺の何?」
 ルイムの元王子……ガーラは青年の肩をつかみすがるような目で彼を見つめた。青年はその問いかけの意味があまりにも不自然であることに小首を傾げる。
 俺は昔どんな奴だったって……そんなことを他人に聞くものであろうか。
 その気持ちを察したのか、ガーラは青年から手を離し言葉を付け加えた。
「記憶が……ないんだ……」
 彼は自分がルイムの元王子であることは、言葉で教えられて知っているという。しかしその中身まではわからない。
 何故国が滅んだのか、そもそもここがどんな国だったかもわからない。
 過去の自分を取り巻く環境がどんなものであったか、何故か教えてはもらえなかったのだ。それはガーラにとって不安の一つでもあった。
 長髪痩身の青年は、疑わしい眼差しをガーラに向けていた。
「それは……本当なのか……?」
 青年にとってここルイムという土地は汚らわしい魔の土地以外の何物でもなかった。
 青年だけではなく、それは一般の知識としてルイム人以外の他民族に焼き付いているものだった。
 魔のものと関わり、人として汚らわしい行為をするもの……漠然としているがそれが世間のルイム人への当たりかたであった。
 そんな世間の常識も知らないガーラは、何故自分が好意的ではない態度を示されるのかわからなかった。
「俺は……嘘をつくような奴だったのか?」
 明らかに気を沈めた様子のガーラに、青年ははっとなって言葉を改めた。
「あなたのことは……そうだな、一度見た事があるだけだ。それだけだ。
 変な物言いをしてすまなかった」
 青年は何か思いつめたような、生真面目なしかめっ面のまま、ガーラに軽く頭を下げた。
 そしてそれまで傍らで二人を見ていた金髪の少年が、肘で連れの青年の脇腹をつついた。
「まったく! 命の恩人に失礼な事言うなよ!」
 少年はぷんっと青年にそっぽを向くと、ガーラににこにこと微笑みかけた。
 人懐っこい大きな青い瞳に、ガーラは先ほどの緊張がほぐれたような気がした。
 まだ年のころは十五、六歳だろうか、つかさよりも少しまだ幼く見える。その少年は、少し恥ずかしそうに頬を染めてガーラに話しかけた。
「あの……ありがとう。あなたが来てくれなかったら俺たち今ごろ……」
 ガーラはようやくここで彼らの危機を救った礼を言ってもらえた。愛くるしい少年の微笑みに、ガーラの気持ちもすっかり晴れやかなものに変わっていた。
「木の精霊には気をつけなきゃ駄目だよ。
 特に君みたいな子はね……」
 木の精霊の乙女は自分の好みの男性を見つけると捕らえて自分の世界に引きずりこんでしまうという。
 ガーラは少年の柔らかな金色の髪をくしゃりと撫であげた。
 少年は照れながらも嬉しそうな微笑みをガーラに向けていたが、突如その微笑みが引きつってしまった。
「痛っ……」
 先ほど襲われた時の傷が痛み出したのだろう。少年は左腕上部を抑え込んだ。
「あ、ちょっと怪我しているみたいだね。
 見せてごらん、治してあげるよ」
 その言葉を聞いて、何故か少年から微笑みが消えてしまった。明らかに痛そうな引きつった顔をして、ガーラに言う。
「だ、大丈夫だよ、この位……。
 ハル……マディオラ、傷薬あとで塗って……」
 そうは言いつつも結構痛そうな様子の少年に、マディオラと呼ばれた長髪の青年は心配そうに彼の腕に触れてみる。
「つっ……!」
 びくりと少年の背筋が伸びる。木の枝に締めあげられたところが炎症を起こしているのだろう。
 ガーラはその様子を見て、いてもたってもいられなくなった。
「我慢することないよ、すぐ治してあげるから……」
 優しく微笑むガーラに、少年は観念したのかほうっと息を吐いて頷いた。神聖魔法を受けるのが恐いのだろうか。ガーラはそう思った。
 少年はおそるおそる上着の止め具に手を掛けると、ゆっくりと前を開けはじめた。
 中から現れた少年の肌を見て、ガーラは驚愕した。

「ど……どうしたのコレ……!?」
 差し出された少年の左腕、左肩を見てガーラは驚きを隠せなかった。怪我の程度が酷かったわけではない。
 少年の素肌には無惨な傷跡が無数に散りばめられていたのだ。
 怪我の治療をためらったのは、これを人に見せたくなかったのだろう。ガーラは心の奥底に深い悲しみが涌いてくるのがわかった。
「これは……酷い……」
 腕も、肩も、胸にも傷跡が走っている。どういう目に遭えばこんな傷跡ができるのか、ガーラは想像するのも憚られて、ただ少年の手を握り締める事しかできなかった。
 びっくりしてしまった様子のガーラをかえって励ますかのように、少年はなおも笑って見せた。
「大したことないよ。ただの引っかき傷さ」
 にこにこ笑いながら言う少年に、ガーラは余計に深い哀れみの心を抱いた。
 国を滅ぼされ、住む場所を追われて挙げ句の果てに記憶を失い、兄弟とも生き別れてしまった自分も、かなりの不幸な人物だという自覚がある。
 しかし、こんな痛そうな目に遭っていながら健気に微笑む少年の瞳を見ると、やりきれない気持ちになってしまう。
「かわいそうに……。
 苦労しているのは俺だけじゃないんだね……」
 意識せずに、自然にガーラは少年の小さな肩を優しく抱いていた。
 ガーラの物腰穏やかで優しい振る舞いに、少年はすっかり心を許してしまったようで、うっとりとしたような安らかな微笑みを浮かべている。
 ガーラは神聖な言葉を紡ぐと、その手の光を彼の痛めている箇所にそっと当てがった。淡い光が赤く晴れ上がった炎症を包み込むと、すうっと融けこむように消えていった。

 二人のやりとりを、叱られてから傍らで黙ってみていた長髪の青年は、知らずの内にガーラに対して険しい視線を送っていた。
 少年が連れの青年の、ガーラに対する明らかに好意的ではない態度に気がついて、呆れたため息を漏らした。
 ガーラもまた彼の自分に態度が、あくまでも好意的でないことに苛立ちを覚え始めていた。
「そこの彼は、いつもあんなふうにご機嫌が悪いのかな」
 どこか嫌味な微笑みを浮かべて、ガーラは人懐っこいほうの少年に呟いた。少年は慌てて首を横に振る。そして少年は青年に歩み寄り、再び彼を肘でつついた。
 そしてガーラに聞こえないような小さな声で、彼に呟いた。
「どうしたんだよ、なんでそんなに機嫌が悪いんだよ」
 青年もまた小さな声で、少年に言葉を返す。
「彼は、ルイムの王子だぞ? いかがわしい、魔の手先かもしれ」
 言いかけて、青年はごつんと拳で頭を殴られた。
「あんないい人に何てこというんだ。失礼にも程があるぞ!」
「し、しかし……いい人のふりをしてあなたを誘惑し、なにか良からぬことを」
「アホか!」
 連れの青年の言葉にすっかり気を悪くした少年は、ふんと鼻を鳴らして彼から離れ、再びガーラの元へと歩み寄った。
「お兄さん、ごめんなさい。どうやら彼はすこし頭をやられてしまったみたいなんだ」
 少年は心の底から申し訳なさそうな声を出し、ガーラに頭を下げた。そこでまた不機嫌な青年が眉間にしわを寄せる。
「はは、彼はどうにも俺が嫌いみたいだね。じゃあ俺はそろそろ失礼するね」
 苦笑いを浮かべながら、ガーラは少年と握手をした。少年の表情が、にわかに曇る。
「あなたは何処へ向かっていらっしゃるんでしょうか」
「東の、ワートの自由都市を目指している。そこに俺の兄弟がいるかも知れないんだ。どこかで、俺だけはぐれてしまったみたいで……。何も覚えていないから正直、よくわからないんだけど」
「じゃ……じゃあ一緒に行こうよ! 俺たちもそこを目指しているんだ」
 少年はガーラの手を握り締め、輝くような明るい笑顔でガーラに願った。
 彼の笑顔に、ガーラは心をつかまれた様な感覚を覚えた。繋がれた手から陽だまりのような暖かさが伝わり、心地よくて離し難い。
 ガーラは彼の手を、ぎゅっと握り締めた。
「いいのかい?」
 彼の連れの青年に、ちらりと視線を向ける。青年は少しガーラと視線を合わせたがすぐに目を逸らし、腕を組んでなにか思案に暮れている。
「いいだろう? なあ!」
 少年が連れの青年に、強い口調で問いかけた。青年は目を背けたまま、黙って頷いた。
 青年の許しを得ると、少年は凄く嬉しそうな笑顔をガーラに向けた。
「あなたと一緒させてもらえると、すごく心強いよ。
 俺は……えっと……エストファールっていうんだ!」
 少年がガーラに名乗る。彼の連れの青年も、気持ちを切り替えたのか、ガーラにゆっくりと歩み寄り、なんと握手を求めてきた。
「俺はマディオラという。よろしく」
 にこりともせす、しかめっ面のまま青年もガーラに名前を告げた。握られたその手は少年のものとは対照的に、ぞっとするほど冷たかった。
 ガーラはこれから旅を共にする二人に、にこりと微笑みかけた。
「君達に出会えてよかったよ。
 本当のこというと一人で旅をするのは心細かったんだ」
 旅に出て早々、いい子に会えてよかったとガーラは思った。もう一人の背の高い長髪の男の方は物凄く嫌な感じがしたが、これも神のお導きなのだろうと思うことにした。
「本当に……何も覚えていないようだな……」
 誰にも聞こえないような小さな声で、長髪の痩身の青年、マディオラは呟いた。
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