開け放たれた窓
ルインフィートとハルマースは、憔悴しきったガーラを二人がかりでなんとか洗面所に連れてゆき、顔を冷水で洗ってやった。
汚物で汚れた夜着を着替えさせる為に、ハルマースがガーラの服を脱がそうと手をかけると、彼は悲鳴を上げて激しく抵抗した。
「やめろ!! 離せ――――っっ!!」
「ガーラ! 暴れるな! おとなしく言うことをきけっ!!」
ハルマースは暴れるガーラを押さえ込み、有無を言わさず上着の止め具を外しにかかった。
その様子を着替え終えたルインフィートが、ぽかんと傍らで眺めていた。
一生懸命服を脱がしているハルマースと、強烈に抵抗するガーラ。男同士でもつれてつかみ合いになっている。
それはなんともいいがたい光景だった。
「ハルマース、これからガーラを強姦でもするみたいだな」
へらへらと薄い笑いを漏らすルインフィートを、ハルマースはものすごい形相で睨みつけ、ふざけるなと怒鳴り散らした。
「どこでそんな悪い言葉覚えたんだ」
ハルマースは嘆きのため息を漏らした。
着替えを済ませると、落ち着きを取り戻したガーラはぼんやりと目の前のルインフィートの顔を眺めていた。
彼もまた心配そうに、ガーラの顔をのぞき込んでいる。
「どうしたんだよ、ガーラ。お前この頃変だぞ?」
「変なのは前からだ!」
ハルマースが傍らですぐさま反論した。彼は今日はいつにもまして機嫌が悪いようだ。
明かりに照らされて黄金色に輝くルインフィートの髪と、ふっくらした頬に、ガーラ吸い寄せられるように手を延ばした。
「よく見るとお前かわいいな〜」
そう言いながら、彼の頬を指でそっとつねってみると、柔らかでほどよい弾力のある餅のような感触が手に伝わった。
ルインフィートはガーラに突然予想もつかない行動に出られ驚愕し、そして困惑した。
「なっ、なにすんだよ!!」
「うわーっ、ぷにぷにー」
「壊れてるんじゃねーぞ!」
ルインフィートは不気味ににやにやしているガーラを叱りつけた。
側に控えているハルマースも主君に悪戯をする輩に腹を立て、彼からガーラを引き剥した。
離された途端、何を思ったのか、ガーラはにこにこしたまま、駆け足で部屋の外へと飛び出してしまった。
「おい! ガーラ!?」
ルインフィートとハルマースは挙動不審な仲間の後を追った。一体どんな悪夢を見ていたというのか、二人には想像もつかなかった。
二人は半ば錯乱状態とも言えるガーラを、なんとか落ち着かせようと必死に彼の後をついて駆けた。
ガーラは一目散に、宿の上階へと続く階段を駆け登っていく。
三人分の駆け足の音が階段に廊下に響きわたった。他の部屋の客には随分迷惑に違いない。
二人はガーラを見失わないように、彼のあとを付いていくのがやっとだった。
「どこに行くんだ! ガーラァ――!!」
ルインフィートの叫びも無視して、ガーラはひたすら逃げるように階段を登り続ける。
やがてこれ以上の階は無くなったと見えて、途切れた階段の踊り場からそのまま屋上へと飛び出していった。
五階建ての割と高層なこの建物の屋上には、下にいるより幾分強く冷たい風が吹いていた。
漆黒の空には、鋭くとがって突き刺さりそうな月か浮かんでいた。
ガーラは吸い寄せられるように、外枠の柵に歩いていった。目を閉じて、深呼吸する。
夢によって導き出され、溢れ出した記憶の海にガーラは困惑していた。いろいろな事がまるで昨日のことのように、鮮明に映し出されている。
目を閉じれば直ぐそこに、自分を辱める呪われた月の王がいるようで、背筋が寒くなった。
蘇ってきた事実は重く苦しいものばかりで、その圧力に押し潰されそうだった。
思い出さなければ良かったと、後悔してしまうほどの忌々しい記憶の数々が脳裏をよぎっていく。きっとこれはこれから死ぬまで自分を苛むのだろう。
重く、苦しい、抱えきれない罪悪。
ラージャを殺し、ルイムを滅ぼしたのはザハンではない。
罪なき人々を混乱に陥れたのは、他ならぬ――
「ガーラ!」
ようやくルインフィートフィートとハルマースが屋上までたどり着き、引き戸から飛び出してきた。
その際、背の高いハルマースにはいささか引き戸の高さが低かったようで、枠の上部に頭を打ちつけてしまった。
「痛っ!!」
ごつんという鈍い音とともに、ハルマースは頭を抱え込んだ。
「ああっ! ハルマース!!」
突然彼を襲った災難にルインフィートは慌てて彼のもとに駆け戻った。
そんな二人の様子を、ガーラは酷く穏やかな気持ちで眺めていた。
羨望してやまなかった二人の仲。
ガーラは彼らが自分が望んでも得られないものをすべて持っている気がしていた。
ニ年の間、右も左もわからぬ自分の面倒を見てくれた。しかし自分は彼らになにか与えることが出来ただろうか。旅の荷物にはなっていなかっただろうか。
欝に入っているガーラはぼんやりとそんなことを思った。
夜空に浮かぶ月を見ると、またあの夜のことを思い出す。
義父は自分の存在を認めてはくれなかった。酷い陵辱を受け、既に心は殺されている。
残されたものは、罪を犯してしまった身体だけである。
そんなガーラの脳裏に、ある一つの安らぎへの逃げ道が焼き付いていた。
ようやく起き上がった二人に、ガーラは微笑みかけた。
その静かで穏やかな表情に、近づいてガーラを保護しようとしたルインフィートはぼんやりと立ち止まってしまった。
「二年間……世話になったね。楽しかったよ。
今までありがとう」
言い終わるや否や、ガーラはその身を柵の外へと投げ出した。
突然の仲間の凶行にルインフィートとハルマースは柵へと飛びかかったものの、既にガーラの身体は地へと真っ逆さまに落ちていった。
「お……おい!! 何するんだ!!」
普通の人間ならば、この高さから落ちたら命はない。二人は頭の中が真っ白になった。
しかし無情にもガーラの身体は重力に従い、地に強く打ちつけられた。
ドスンという衝撃音が響き、ルインフィートはそこで起こってしまったと予想される惨劇に肩を震わせ、軽い恐慌状態に陥ってしまった。
「ガーラァ――――!!」
ルインフィートは柵にしがみ付き、わんわんと号泣した。
どういう訳か知らないがガーラは突然自殺してしまった。ルインフィートはそう思ったのである。
共に過ごした日々、いろいろな思い出が甦る。
信神深くて優しい人だった。しかし時々おかしな時もあり、ハルマースともどういう訳か喧嘩ばかりしていたが、ルインフィートは優しい兄のようなガーラが好きだった。
何故彼の自殺に走らせるほどの悩みを解ってやれなかったのだろうと、ルインフィートは悔いても悔やまれない気持ちで自分でも収拾がつかなくなるほど泣いた。
しかし、対象的に冷静だったハルマースは、下の様子がおかしい事に気が付いた。
これほどの高さから落ちていながら、ガーラの身体がぴくりと動き出したのである。
さしたる障害もなく、ガーラ本人も戸惑った様子で身体を起こした。
そして傍らに人の姿があった。
通りすがりの人物らしいが、突然上から人が降ってきて呆然と立ち止まったまま固まっている。
その人物は長い金髪が特徴的で、男だろうか、女だろうか……この距離では確認できないが、固まったまま動かないでいる。
「何だ……? おい、大丈夫みたいだぞ」
いささか残念そうな声で、ハルマースは泣きじゃくるルインフィートの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「……え?」
涙に滲む目でルインフィートは下を見下ろし、ガーラが生きている様子を確認し、ほっと胸をなで下ろした。
とりあえず下におりてガーラを保護しようと考えたハルマースは、ルインフィートと手を繋ぎ、柵の外に立つと、空中浮遊の魔法を唱えた。足元に空気の板が出現し、二人はゆっくりと下に降りていった。
「何を思ったか、飛び降り自殺を計るなんて迷惑窮まりない。
誰が片付けると思ってるんだ。まったく」
そんなに死にたいのなら今直ぐ俺が殺してやると言わんばかりのハルマースに、ルインフィートは恐怖した。
ガーラは、死ぬつもりだった。
記憶を取り戻し、これ以上生きていくのは許されないと思っていた。
たとえ憎んでいようとも、義父であり王であった人物を手にかけてしまった罪悪感は、大きく彼にのしかかった。
ルイムの国王を殺したのは、世間では犯人であるとされている、うさぎのZ……ザハンではない。
ガーラが刺したのだ。
自身が招いた混乱のせいで、多くの国民が苦難を強いられている。
それを思うと、のうのうと生きている自分が許せなかった。
しかし、死ぬことはかなわなかった。
彼に流れる魔の血が、高いところから落ちた位の衝撃では死なせてくれなかったのである。
背中がちりちりと熱いのを感じる。
身体を起こそうと、両腕を支えにしながら背を浮かせると、足元に人が立っているのに気づく。
呆然と固まっていたその人物の顔面は蒼白で、碧い大きな瞳はガーラの顔をじっと見下ろしていた。
まつ毛が長くほっそりとした顔立ちで、男だろうか、女だろうか……近くで見ても、よく判別がつかない。
美しい金髪が風になびき、揺れていた。
ガーラがきょとんとその人物を見上げると、その人物は目をこすり、唇が戸惑いがちに動いた。
「参ったな。相当疲れているのかな……。
兄さんが空から降ってくるなんて……。これは幻覚か?」
言われてガーラははっとなった。この顔立ちはたしかに、兄弟のものだった。
しかし、ガーラは困ってしまった。
記憶が蘇ったとはいえ、兄弟とは三年も会っていない。三年も経てば若者は目を見張るほどに成長するのである。
ガーラは目の前の人物が、弟なのか妹なのか判別できなかった。
しかし意を決してガーラは、おそらく兄弟であろう人物に声をかけた。
「ろ……ローネ……?」
瞬間、ガーラの頭に拳が飛んだ。
⇒NEXT