乾いた魂
男の首筋を流れる赤い血液を見た時、コテツの喉は鳴った。
身体の中を巡るとりとめのない感情が取り払われ、不思議な力が込み上げてくる。
目の前の獲物を捕れ。
誰かにそう言われた気がして、ふらふらと目標物へと近づいていった。
男の胸元に身を寄せ、流れ落ちる赤い滴を舌で嘗め取ると、濃厚な鉄の臭いが口内に広がった。
コテツは興奮を覚えた。自分の身体中の組織が何か別の物に変わってしまったような錯覚に陥る。
男の脈打つ動脈に視線が釘付けになる。
しかし、幽かに残る理性がコテツを戒めていた。
そこに牙を立ててしまったら自分が自分でなくなってしまうような気がして、ただ男の腕の中で震えながら呼吸を乱していた。
「ほら見なさい、ザハンちゃん。
この子もはやく食べてもらいたいのよ」
キルヒはコテツの背中に腕を回し、そっと抱き締めた。
背中越しに見える小さな双丘が敵を目の前にしながらキルヒを欲望に駆り立てる。
Zはその異様で淫質な光景にどうして良いのかわからず、呆然とただ立ち尽くした。
キルヒはコテツの双丘を柔らかく撫で上げると、その窪みに指を這わせた。
「やっ……!」
コテツを戒めていた理性が消し飛んだ瞬間、彼はキルヒの首筋に深くその牙を突き立てていた。
「やだぁっ! 何この子!!」
思いもよらない少年の豹変にキルヒは気が動転した。蚊でも払うかのように思いきりコテツをはじき飛ばした。
コテツの身体は非常に強い力で壁に衝突し、内臓を破損したのか口からごほりと血を吐く。ぶつけられた壁にはひびが入りぱらぱらとその破片が床にこぼれ落ちる。
コテツはそのまま壁にもたれかかり、ぐったりと動かなくなってしまった。
「あらやだ思いきりはたいちゃったわ。
死んじゃったかしらんもったいないわ〜」
キルヒは投げ飛ばしてしまったコテツに歩み寄り、その頭を撫でる。
何も反応はない。
まるで躯のように。
Zは戦慄を覚えた。
哀れな少年は殺されてしまった……Zは、そう信じて疑わなかった。
深い悲しみと怒りがこみ上げてくる。
うさぎの着ぐるみの中、Zは変化を起こしていた。
頭部のかぶり物を取り払うと、キルヒの背後に立つ。
キルヒはZの気配に気づき後ろを振り替えると、絶叫を余儀なくされた。
「いやぁん!! こわーい!!!」
Z……ザハンの真の素顔がそこに見えた。
少年のような柔和な顔の面影を残しつつ、その額に4つもの目を見開いていた。
皮膚には幾何的な模様が浮かび上がり、見る者を心理的に恐怖に陥れる。
ザハンの出身は森である。現在も彼の兄が聖域と呼ばれる場所を守っていた。
森の中でもっとも恐ろしい生き物は牙と鋭い爪を持っていたとしても猛獣などではない。
真に恐ろしいのは毒針を持ち獰猛に、そして残虐に獲物を刺し殺す……虫である。
ザハンの素顔はまさに「美しい毒虫」を連想させた。
着ぐるみのその中はさらに恐ろしいものに変化しているのだろう。
キルヒは一、二歩、後ずさった。
「本気なのね、ザハンちゃん……」
彼の表情から締まりのないにやけた面影が消える。
眉を寄せ、その瞳には何故か哀れみの色が浮かんでいる。
「わからないわ……ザハンちゃん……。
なぜ私たちに牙を向けるのかしら?
あなた自身が招いた災いを人のせいにしないで欲しいわ」
ザハンの表情はあくまで冷たく、キルヒを見据えていた。
キルヒはその視線を受け止めながら、窓辺へと静かに歩みゆく。
窓の外は満天の星空であった。
「夜空の星は何でもお見通しなのよ。
そう、わたしもここでしばしの休息を……」
キルヒは覚悟したように瞳を閉じた。争う様子はない。
現在の肉体を捨て、また新たに転生するために彼は最後の秘術を使った。
コテツの肉体は急速な回復を遂げていた。
先ほどの打撃がまるで何もなかったかのように消え失せる。
軽い睡眠状態の彼は、うつらうつらと夢を見ていた。
闇に包まれた静寂な屋敷の中で、母親の膝元に抱かれながらうたたねをしている。
小川のせせらぐ音と、樹木のざわめきが耳に心地よかった。
まるで時間が止まっているようだった。
世界は灰色と青に包まれ、まるで明日も昨日も無いような日常……。
ふっと、コテツは目を覚ました。
突然に鮮烈な赤が彼の目に映った。
夥しい血の海が、目の前に広がっていた。
猟奇な光景だった。先ほどまで自分を戒めていた男?の体が、みるも無惨に解体されていた。
「うわぁぁぁぁぁ!! バ、バラバラ死体!?」
死んだと思っていた少年の声に驚いてZはあわててうさぎの頭を被る。
Zは焦り、とりあえずコテツを保護しようと考え彼の体を有無を言わさず抱えあげた。
「うわぁぁぁぁぁ!! 何かヘンなのに捕まった〜!」
混乱しているコテツに構わずZは窓から飛んで外に出ようとした。
その時、部屋の扉がけたたましく蹴破られ、少年の声が響いた。
「待て!! う、ウサギ!?
コテツを返せ!!」
Zはその姿を見て衝撃を受けた。
まるで悪魔のような少年の姿は紛れもなく自分の兄の息子のものであると瞬時に確信する。
「はい」
Zは一瞬あっけに取られるほどにあっさりとコテツを解放した。
コテツは少年に駆け寄り、飛びつくようにして抱きついた。
「つかさ〜!!」
つかさはコテツに抱き締められ、照れとともに戦慄を覚えた。
何故素っ裸なんだと。
「てめぇ、コテツに何をした!!」
やばい、自分が疑われている!? と、Zは慌てて首を横に振った。
「大丈夫です。やられるまえに殺りましたから」
Zは自分が敵ではないことを示すために、右手を差し出しつかさに握手を求めた。
「…………」
つかさは、その手を無視した。
目の前の存在は、余りにも怪しいものだった。
Zは長居は無用であることを感じ、立ち去ることにした。
「つかさくん。君のお父さんも必ず助ける」
「えっ!?」
思いもよらない言葉をかけられてつかさは驚愕した。
呼び止める間もなく、うさぎは夜空の中に融けこむようにして消えてしまっていた。
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